秋田市新屋表町の町並 
新屋表町・元町
地図


新屋表町の町並

 秋田市新屋表町は秋田市中心部から南南西に4〜5kmの新しい雄物川の左岸に位置する。
新屋村は勝平山(現秋田カントリークラブ辺り)の南麓に位置していた。大正6年からはじまった「雄物川改修工事」が昭和13年に完成した。勝平山南麓を切り崩してそこに雄物川の本流持って来て、日本海に放流すことにより、秋田港への土砂流入と、秋田市内を洪水被害から守ることができたが、新屋の町はこの雄物川の付け替えにより上下に分断されてしまった。
江戸期の新屋村は公式には百三段新屋村といい、初め由利藩領。元和8年(1622)から秋田藩領。
慶長8年(1603)の村高は226石余と推定される。「正保国絵図」「元禄7郡絵図」ともに百三段(新屋・石田坂・浜田)3ヶ村で本田当高688石余。「享保黒印高帳」では村高454石余・当高412石余。「享保郡邑紀」では460軒とある。宝暦2年(1752)の口上書によると、当高369石余、家数477・人数2,452、馬85とあり、「天保郷帳」では334石余で、この頃の家数1,000・人数3,970、馬200とある。
新屋村は「秋田風土紀」に「往古勝平山の麓に有、砂崩るる故に居を移す」とある。砂丘は西からの強い季節風を受けて内陸寄りに移動を重ね、飛砂の害をもたらし、水田・人家に甚大な被害を与えてきた。飛砂の防止は新屋村にとっての悲願であり、文化年間(1804〜18)栗田定之丞による砂防林完成は画期的なものであった。
生業は農業の他に漁業・製塩業・川舟による水運業によって生計が立てられていた。漁業は主に鰯漁で多くは干鰯として利用された。新屋浜では製塩も行われていた。
さて、かっての街道筋とおぼしき辺りを歩くと、古い伝統的な様式で建てられた家屋が点在しているが、町並になっていなくて、こっちに一軒、あっちに一軒という状態だった。古い様式の家屋は妻入りが多かったのが特徴だろうか。
町並指数 30
参考文献   
  角川日本地名大辞典  角川書店  角川日本地名大辞典編纂委員会  昭和55年
  秋田県の地名  平凡社  下中邦彦  1980年  

新屋表町の町並

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新屋元町の町並

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