会津美里町旭三寄・旭杉原は福島県西部、会津盆地の南西部、阿賀川の支流宮川中流域東岸に位置する。 近世初めは会津領、寛永20年(1643)からは南山御蔵入領。 江戸期は大沼郡北村・上杉原村と呼ばれていた地域。 北村は明治8年に北村・箕作村・岩渕村が合併して三寄村となり、その後統合併を繰り返し、昭和30年会津高田町旭三寄となり、小名馬墓。 上杉原村はもと杉原村で江戸初期に上杉原村と下杉原村に分かれ、明治8年に、再び上・下杉原村が合併し杉原村になり、昭和30年に高田町旭杉原となった地域 北村・上杉原村は共に高田村から大内村(現下郷町)へ通じる下野裏街道に面していた。 北村は本村の北2町余に小名馬墓、西7町余に端村兎沢があった。 文禄3年(1594)の蒲生高目録には北村莵沢とあり、高309石余。文化15年(1818)の南山御蔵入領組村高帳では高358石余。化政期の家数は本村17・馬墓3・兎沢7とあり、明治4年の家数35・人数220とある。 上杉原村は文禄3年(1594)の蒲生高目録には杉原村とある。文化15年(1818)の南山御蔵入領組村高帳では高263石余。化政期の家数は本村23・馬墓1とあり、明治4年の家数28・人数157とある。北村の馬墓と上杉原村の馬墓の地名は源義家の乗馬を埋めたためといい、下野裏街道を挟んで南側は北村馬墓で、北側は上杉原村馬墓。天明8年(1771)に北村本村から移り住んだと伝えられる。 平坦な水田地帯を走っていると、突如ナマコ壁の白壁土蔵群が現れびっくりする集落。資料によると2軒の造り酒屋さんの主屋や酒蔵が醸し出している町並みの雰囲気は最高のもの。 でも、現役の造り酒屋さん??と疑う程ひっそりとしていた。この旧下野裏街道沿い約100m程の町並、造り酒屋さん以外の方もお住まいだろうが、どの家も殆ど生活感を感じないほどひっそりとした集落だった。 角川日本地名大事典 角川書店 角川日本地名大事典編纂委員会 昭和56年 福島県の地名 平凡社 (有)平凡社地方資料センター 1993年 |
旭杉原村東の町並 |
旭杉原村東の町並 |
旭杉原村東(右)旭三寄馬墓(左)の町並 |
旭杉原村東の町並 |
旭杉原村東の町並 |
旭杉原村東の町並 |
旭杉原村東(右)旭三寄馬墓(左)の町並 |
旭杉原村東(右)旭三寄馬墓(左)の町並 |