会津坂下町の市街部は、福島県北西部、会津地方の中央部に位置する。 江戸期は会津藩領。村高は文禄3年(1594)の蒲生高目録では1,540石余、うち482石余は荒地。文化15年(1818)の村日記では1,694石余、「天保郷帳」1,936石余。 慶長16年(1611)の会津大地震により、従来の勝負沢峠を越えていた越後街道が通行不能となり、新たに鐘撞堂峠越えに改修された。このとき坂下村はその宿駅に指定され、それ以後急速に発展する。 寛永2年(1625)村の南に8町24間の坂下宿の町割りが施行され、東から上町・中町・下町が成立した。 寛永3年(1626)には4・9の六斎市も開かれるようになった。坂下宿の町割り当時の家数は216軒とある。 貞享元年(1684)の御検地御竿入坂下水帳によると家数212、享保3年(1718)の坂下検地帳では家数382、化政期の家数399、天保12年(1841)の坂下村検地帳では家数412。村内の構成は上町・中町・下町・及び新町・茶屋町の五町から成り、幕末には新々町・鉄砲町が追加された。 また、坂下宿から下野裏街道が分岐し、交通の要衝として賑わっていた。 産物は坂下煙草や薬用人参・酒・味噌・醤油の醸造・菜種搾油などであるが、中でも坂下煙草は有名であった。 上町は村の東端にあり村高は「旧高旧領」で422石余で、家数は貞享元年(1684)99軒、天保12年(1841)147軒。 中町は村内の中央にあり、村高は「旧高旧領」で526石余、坂下・牛沢両組の代官所や郷頭屋敷などが置かれ、家数は貞享元年(1684)42軒、天保12年(1841)57軒。 下町は村の西端で、村高は「旧高旧領」で111石余、家数は貞享元年(1684)71軒、天保12年(1841)には新町分も含めて166軒。 いま、旧越後街道に沿って古風な様式の家屋が点在している。古い町並の象徴と云うべき造り酒屋さんや呉服屋さんも残っていたが、宿場町当時の面影は殆ど残っていなかった。 角川日本地名大事典 角川書店 角川日本地名大事典編纂委員会 昭和56年 福島県の地名 平凡社 (有)平凡社地方資料センター 1993年 |
市中一番甲の町並 |
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