養老町高田の町並 
高田
地図


高田の町並
 高田は江戸時代には島田村の一集落で、島田村は他に島田・下高田の3集落からなっていた。
関が原の戦い直後、この地に任命された代官の一人間宮彦次郎から市の開催許可が出され、その中に楽市の条項もみられる。宛て所は「嶋田町中」とあり、当時から町場を形成していたようで、嶋田の市と呼ばれて賑わいを見せるようになった。
高田は琵琶湖米原湊から番場・醒ヶ井・柏原・今須・関が原・牧田・高田を経て濃州三湊に至る九里半街道筋の集落で、早くから町場を形成していた。濃州三湊(烏江・粟笠・船附の各湊)からは揖斐川船運で伊勢桑名・尾張名古屋方面と繋がっていた。
伊勢・桑名や尾張・名古屋と京都・大坂・北陸との荷物の輸送路・交通路の要衝となり、また、濃州三湊は木曾の木材、伊勢の塩、当地の米・菜種油・雑貨、赤坂の石灰の積み出し湊として栄え、在郷町高田を中心として繁栄していた。
江戸はじめは高須藩徳永氏領、その後幕府領と旗本領を繰り返し、宝暦13年(1763)からは幕府領大垣藩預かり地となって明治を向かえる。
元禄4年(1691)の家数275・人数1,488。宝暦13年(1763)の家数521・人数2,261。天保9年(1838)の家数510・人数2,029とある。
しかし牧田川が土砂の堆積によって次第に川底が高くなり、航行に支障がでるようになったのと、大垣船町湊が中継所として大きく発展したため濃州三湊は次第に衰弱し、幕末には殆ど昔の面影が無くなってしまった。
今でも高田は昔のままの高田・島田・下高田の三集落から成っている。その中の高田は商店街で町並は旧九里半街道にそって展開している。大きな造り酒屋さんも呉服屋、米屋などの古い町並の形成要素は全て残っている。中2階建て、切妻造り平入りの大きな商家の建物が点在するも連続しては残っていない。漆喰塗り込め虫籠窓を残した商家、袖壁や煙り出しを備えた家、軒先に大きな木製の看板を揚げた商家などが残っていたが、もう一つ活気が無いのは日本全国このような古い町並の今現在の姿だ。何とかならないものかと思う。寂しさ侘しさが残る町並訪問だ
町並指数  40
参考文献 
  角川日本地名大辞典  角川書店  角川日本地名大辞典編纂委員会  昭和55年
  岐阜県の地名  平凡社  (有)平凡社地方資料センター  1989年

高田の町並

高田の町並

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