東海道は時代とともにその道筋が変化してきた。奈良時代〜平安中期までは焼津の花沢から日本坂を越えたのだが、その後、戦国時代までは葛の細道と呼ばれる道筋になり、江戸時代は蔦の細道の西方約750mの峠を通る東海道が開かれ一般的になった。 花沢の平安時代中期までは古代の東海道が通り栄えていた集落であった。花沢の地名の初見は、永禄12年(1569)と推定される武田信玄書状写で花沢の名が記載されている。 安永3年(1774)の家数28・人数172(惣人別改帳 石川家文書)。文化13年(1816)家数36・人数200(惣人別改帳 石川家文書)。明治24年家数37・人数233。昭和7年家数32・人数242。平成8年家数38・人数177人と江戸時代から大正を経て昭和・平成になっても家数と人口の変化が少ないのは、限られた平地であるから、これ以上分家して家数を増やすことが出来なかったためだろう。 花沢集落は三方を山に囲まれ、花沢川の西側のみに形成された集落で、長屋門を持った黒色の下見板張りの家屋が連なる特異な景観を呈していた。 資料によると、果樹・茶栽培を生業としていて、特に明治後期、輸出用のミカン産地として大いに栄え、ミカンの収穫期に雇用した人々の宿泊施設として、このような構えの農家住宅が形成されていったという。裕福そうな集落で、大きな主屋、長屋門や付属建物も全て黒板貼りの景観は見事なものであった。 静岡県の歴史散歩 山川出版社 静岡県日本史教育研究会 1997年 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 静岡県の地名 平凡社 (有)平凡社地方資料センター 2000年 日本の町並T 平凡社 湯原公浩 2003年 |
花沢の家並み |
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