垂井宿は中山道の近江から美濃へ入った最初の宿場であった。 古代の東山道筋に発達した宿駅で、平安末期には野上・青墓の領両宿が繁栄しておったが、垂井が宿駅として整備されてくるのは承久の乱(1221)、あるいは将軍頼経上洛のころからと云われている。 また、中山道と美濃路(東海道の熱田までの街道)の分岐点で、古くからの交通の要衝であるとともに、南宮神社の門前町として成立した。 中山道分間延絵図では、宿内は東より東町・仲町・西町と続き、仲町・西町には問屋場・本陣・脇本陣・高札場が町並の景観として描かれている。 江戸初期には高須藩徳永氏領、寛永5年(1628)からは幕府領で、寛保2年(1742)から寛延3年(1750)まで京都所司代牧野備後守貞通(日向延岡藩主)役料。享和4年(1804)からは幕府領大垣藩預り地であった。 天保9年(1838)の戸数316軒・人数1181人(垂井町史)。天保14年(1843)の「宿村大概帳」によると宿内町並は約7町、家数315軒・人数1179人・旅篭27軒。本陣1・脇本陣1となっている。 垂井宿の東は相川に架かる相川橋から東町・仲町・西町と続き西端の西の見付けまでであり、安藤広重の垂井宿の絵はこの西の見付けから西を見たときの大名行列の様子である。 宿内には枡形も造られていて、そこには江戸時代から続く旅篭の亀丸屋西村家が、今でも現役の旅館として営業している。この建物は安永6年(1777)に建てられた間口5間・奥行き6.5間の主屋と離れに上段の間を含む八畳間が三つあり、浪花講・文明講の定宿でおおいに繁昌していた。 今も町並は当時の宿場・街道の面影を色濃く残しており、中山道400年のイベントがいろいろと開催されるなど 活性化に向って努力されていた。 町並は切り妻造りの中2階建て又は2階建て、平入り、桟瓦葺き、かっては塗り込めの虫籠窓であったろうが、今は中2階と云えどもガラス窓に変わっていた。なかには袖壁や煙だしを備えた商家もあった。 岐阜県の歴史散歩 山川出版社 岐阜県高等学校教育研究会 1994年 中山道歴史散歩 有峰書店新社 斎藤利夫 1997年 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和59年 岐阜県の地名 平凡社 下中 弘 1989年 |
右側手前の家は垂井宿の枡形にある 江戸時代から続く旅篭の亀丸屋 |
垂井宿の町並 |
垂井宿の民家 |
垂井宿の旧問屋金岩家 |
垂井宿の町並 |
垂井宿の民家 |