この多治見市池田町は江戸時代には池田村といい、その中心部がこの辺りであって、後に分村して池田町屋村となった。領有関係は慶長5年(1600)の関ヶ原の戦い直前、当地は岩村城に在る田丸直昌の支配下であった。田丸方は西軍に属したため、戦い後の多治見地方は幕府領・大名領・旗本領が入り混じって、支配関係は複雑を極めた。池田町屋村は江戸初期は酒井半左衛門領であったが、のち尾張藩領になりそのまま明治を向えている。 この池田町屋村を通る街道に下街道がある。(現在の国道19号線にあたる)中山道の大井宿の西から南にそれて、土岐川に沿って多治見にはいり、内津峠を越えて尾張に出る街道である。近世になり伊勢参宮と善光寺参りが盛んになり、尾張と信州の往来が頻繁になるにつれて、下街道は公道の中山道を通るよりも、距離が短く、かつ険しい山道が少ないために庶民の街道として利用された。(中山道の公道は大湫宿・御嵩宿・太田宿から犬山街道を南下して尾張に入るより大幅に距離が短い) そのため中山道や犬山街道の宿場からは度々下街道の通行差止めの訴えが出され、論争が絶えなかったが、寛文2年(1662)に池田町屋など4駅が置かれて、一般の通行が認められた。そして池田町屋村は今の多治見市の村々の中で最も栄えたという。 江戸初期には池田村だったが明暦(1655〜58)頃までに池田町屋・廿原・三之倉・小木の各村に分かれている。そして明暦覚書に池田町屋村として人数164。寛延2年(1749)の家数123・人数523である。美濃南端の宿場として、また難所の内津峠越えの基点として旅籠も多く、茶屋・米屋・雑貨屋など町並は約4町続いていた。明治5年の村明細帳によると、家数185・人数712とある。 そして明治33年の中央線開通以後は交通の中心は多治見村に移り、次第に衰退していった。 今町並を歩くと、街道にそって平入りで中2階建てや2階建ての伝統的な様式の民家が点在し、宿場町・在郷町だったなあとの面影を残しているが多くは建て替えられていた。 角川日本地名大辞典 角川書店角川 日本地名大辞典編纂委員会 昭和55年 岐阜県の地名 平凡社 (有)平凡社地方資料センター 1989年 岐阜県の歴史散歩 山川出版社 岐阜県高等学校教育研究会 1994年 |