焼物の町多治見の中心街に古い町並が残っている。 関ヶ原の戦いでは、当時、当地の支配者であった岩村城の田丸直昌が西軍に属したため戦い後は幕府領・大名領・旗本領と支配関係は複雑を極めた。多治見村は最初旗本妻木領であったが、万治元年(1658)同家が断絶すると以後幕府領となり明治に至った。 文化7年(1810)村明細帳では多治見村は家数326・人数1,522とある。 美濃焼きは天正2年(1574)の織田信長朱印状をもって加藤景光は天正11年(1583)に尾張瀬戸から久尻村(現土岐市)に移住し開窯した。その後を長男の景延が継ぎ、多治見では次男の景頼の養子景増が、市之倉では加藤直政が、高田では加藤景直が、小名田では加藤景門が、笠原では加藤景成がそれぞれ窯を開き、陶祖と称されるようになり、黄瀬戸・志野・瀬戸黒・織部などの格調高い茶陶が多く焼かれた。多治見では景頼の養子景増が開窯し、その子の景姓・景郷によりそれぞれ東窯・西窯が開かれた。寛政年間(1789〜1801)には窯九筋・ろくろ69丁・窯屋数45軒となり、農間稼ぎに窯焼の仕事をするものも増加し、次第に一般生活用品が多く焼かれるようになった。 また多治見は美濃焼の集散地として栄え、天保6年(1835)には尾張藩の美濃焼物取締所が置かれた。 しかし多治見の大きな発展は明治に入ってからで、美濃焼物の生産・販売に大きな制限を受けていたのが、明治維新を機に一挙に吹きだし、生産・販売が自由になると陶器商は増加し、全国を駆け回っての販売に拍車がかかり、全国生産総額の26パーセントも占めるまでになった。人口も急激に増加し明治初年の繁栄振りが察せられる。 古い町並は町の中心である本町ながせ通りに展開する。今でも多くの陶器商が多治見で営業しているが、陶器商の家屋や店は殆どが別の場所に移ってしまって中心部は、普通の商店街と同じであった。 それでもと探し回ると、大型の陶器の商家建物は本町通りから少し離れた位置で、黒漆喰塗りの落ち着いた建物や土蔵であった。殆どは明治末期から大正時代にかけて建築された建物のようだった。 角川日本地名大辞典 角川書店角川 日本地名大辞典編纂委員会 1990年 岐阜県の地名 平凡社 (有)平凡社地方資料センター 1989年 岐阜県の歴史散歩 山川出版社 岐阜県高等学校教育研究会 1994年 |
本町の町並 |
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豊岡町の町並 |
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