慶長6年(1601)に東海道の宿駅に指定された蒲原宿は江戸から数えて15宿目に当たる。 慶長5年(1600)幕府領、慶長14年(1609)徳川頼宣領、元和5年(1619)幕府領、寛永元年(1624)徳川忠長領、寛永10年(1633)より幕府領となり明治になっている。 江戸時代の蒲原宿は富士川を控えた宿場町として繁栄し、富士川の川留めの時には、渡しを待つ旅人で賑わったという。 元禄12年(1699)大津波に襲われ、壊滅的な打撃を受けた。そのため現在のJR新蒲原駅の南側にあった宿を、北側の山裾に宿替えが行われた。 元禄16年(1703)の蒲原宿明細書上帳によると家数307・人数2,379である。天保14年(1843)の宿村大概帳によると家数509・人数2,480。本陣1(本町)・脇本陣3(本町1・天王町2)。旅籠屋42・問屋場一ヶ所であった。文久年間(1861〜64)頃作成されたと思われる蒲原宿町並軒別帳によると、宿家数455のうち往来稼ぎ78・旅籠屋47・馬持22・茶屋17・菓子屋などの商人が57であった。 江戸時代初期に富士川の舟運が開かれ、甲州から岩淵(旧富士川町、東海道の間宿、川湊)まで川下された荷が陸路で蒲原まで運ばれ、そこから清水湊などへ船で運ばれ、蒲原は廻船業でも栄え、廻船の基地でもあった。 また、蒲原は製塩業も盛んで多くの農家が塩田を持っていたし、漁業も重要な産業であった。 明治5年には灌漑用を兼ねた運河が掘られて岩淵から蒲原まで、水路で運ばれるようになると、荷を直接甲州から蒲原に運べるようになり蒲原の堀川溜りは大変賑わった。しかし、明治22年の東海道線の開通、次いで中央線・身延線の開通などにより、江戸時代初期にはじまった富士川水運もその役割を終えた。 蒲原宿には当時を偲ぶ伝統的な家屋は少なくなっていて、連続した町並とは云えないが、今でも宿場当時の面影が色濃く残っている。 黒板塀の本陣跡建物も健在で、なまこ壁の商家の建物もある。この町並を歩いていて好印象を与えるのは、この町がこの宿場町の保存に取り組み、案内表示板や説明板を各所に設置していたり、町並保存のための講演会なども企画されている努力の賜物だろう。 静岡県の歴史散歩 山川出版社 静岡県日本史教育研究会 1997年 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 静岡県の地名 平凡社 (有)平凡社地方資料センター 2000年 東海道を歩く 山と渓谷社 山と渓谷社大阪支局 2001年 |
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