白川郷は岐阜県の北部、庄川の源流部に位置し、かっては他の地域との交流も殆どない、文字通りの秘境であった。 白川郷、五箇山ともに「平家の落人がきたところ」と云われているが確証はない。南北朝時代には南朝派を支持し、その後足利将軍義政の命で信州松代から白川郷へきた、内ヶ島為氏の領地になっている。荻城は内ヶ島氏の家臣山下氏勝が建てたもの。天下統一を進めた豊臣秀吉は、天正13年(1585)越前大野城主金森長近に飛騨の攻略を命じ、金森軍は白山連峰の別山を峠越えして、上白川郷に入り全飛騨を制圧した。そして秀吉によって飛騨3万石の大名となり、高山城を築き飛騨の諸豪族を制圧して、以来金森家は6代107年間飛騨を支配した。 元禄5年(1692)飛騨は江戸幕府の天領になったが、金森氏の政治を受け継いだ。この頃から白川郷も五箇山とともに養蚕と煙硝製造が盛んになった。 合掌造りの民家がいちばん多く残っているのは、今では白川村荻町の59棟で、次いで五箇山の相倉に20棟、菅沼に9棟などと続き、荻町ほどの規模をもったところはない。 荻城跡の展望台から妻側を見せた合掌造りの家屋が建ち並んでいる風景は絶景であった。妻側をこちらに向けているのは風の流れによるもので、合掌部の通風をよくするために、風の流れに沿って建てられたものである。 合掌造りの家ができたのは養蚕のためで、2階、3階、4階などの部分は養蚕をする時期には全て蚕室として使われた。合掌造りの家では大家族で暮らしていたが、これも全て養蚕のためで、耕作地が少ないために長男以外は分家することもできず、その家の労動力として働き続けなければならなかった。 白川村荻町は合掌造りで知られている。かって庄川の上流全域に合掌造りの多くの集落があったのだが、この地域がダムをつくる適地であったため、巨大な御母衣ダムをはじめとする多くのダムで、合掌造りの家が建っていたあたりは殆ど水没してしまった。電源開発の名のもとにあらゆる物を水没させて、日本国の経済発展に寄与したのだが、大切な文化財をなくし惜しいことをしたものである。 合掌造りの家屋は江戸時代中期から明治中期に建てられてものが多く、一階の軸組部は専門の大工(能登大窪大工)の手になるものが多く、屋根部分の合掌は農民総掛かりで大小の丸太材と割木材を使って、三角形を基本にした構造に組み立て、茅で屋根を葺いたものだ。 荻町ではお寺(浄土真宗明善寺)までが合掌造りであった。合掌造りの家屋は火に弱いため、荻町にはいたるところに消火用の放水銃が設置されていて、火事に備えているが、、火事に対する防火の心構えは、一般の観光客でも守らねばならない。 岐阜県の歴史散歩 山川出版社 岐阜県高等学校教育研究会 1994年 飛騨金森史 財団法人金森公顕彰会 高山市制50周年記念行事推進協議会 世界遺産の合掌造りの集落 北日本新聞社 1996年 歴史の町並みを歩く 保育社 高士宗明 平成6年 歴史の町並み事典 東京堂出版 吉田桂二 1995年 町並み・家並み事典 東京堂出版 吉田桂二 平成9年 |
明善寺 |
|