下田は伊豆半島南東端に位置し、江戸期には東西を往復する帆船の風待ち・避難の要港となった。 関西から関東へと荷物を運ぶには船が使用された。寛文10年(1670)河村瑞軒によって、東廻り航路が開かれ、東北地方から南下してきた船は相模・伊豆から順風を待って、江戸に達するのが好都合であった。そこで下田・妻良・子浦の港は風待ち・日和待ちの港として賑わった。 天正18年(1590)秀吉軍により、小田原城の北条氏の家臣清水康英が守る下田城も開城し、そして小田原城も落城し、北条氏が滅亡する。秀吉により徳川家康が関東八国と伊豆を領有すると、下田には戸田忠次が領主として封ぜら、その子尊次と二代の間に下田の町は小さいながらも、城下町として碁盤目状の町並みができあがったと見られている。 江戸時代初期の江戸は人口100万の大都会となっていた。この多くの人々の生活を支える莫大な量の物資が江戸に集中したが、これらの物資はすべて海路で運ばれたので、風待ち港である下田は江戸航路随一の港となった。 江戸幕府は縄地金山の開発などもあって、元和2年(1616)以後下田奉行所を置いて直轄領とし、さらに関所にあたる船改番所をおいた。当時下田は出船入船3000隻といわれ、縄地金山の盛況もあって家数1000軒、人数5000人の繁栄を誇ったという。 実際は宝暦10年(1760)には家数805軒・人数2895人。慶応4年(1868)では家数884軒・人数3829人であった。 200年余りにおよぶ鎖国政策は、嘉永6年(1853)・翌安政元年(1854)のペリー艦隊の来航によって、日米和親条約が締結され、下田・函館の二港の開港が決まった。安政3年(1856)ハリスがアメリカ初代総領事として、下田玉泉寺を領事館にして着任した。玉泉寺が日本最初の星条旗が掲揚された場所である。 そして安政5年(1858)日米修好通商条約と貿易章程が締結され、玉泉寺のアメリカ領事館は閉鎖され、江戸麻布の善福寺に移っていった。このアメリカ領事館が下田に置かれていたときが、最も脚光を浴びた時代であった。この通商条約により、開港場は神奈川・長崎・函館・新潟・兵庫の五港となった。 南伊豆一帯にナマコ壁が分布したのは、安政元年(1854)の大津波が下田の町を押し流し、大変な災害をもたらしたことと、下田の町は家並みが混んでいて、しかも道路が細くその防火対策として、塗り込め造りや土蔵造りが考えられたが、多額の費用がかかるので、このようなナマコ壁の家が出現したようだ。 幕末の下田の代表的な廻船問屋に「綿吉」の鈴木家と「雑忠」の鈴木家があった。「綿吉」の広大な邸宅は今は無くなったが、「雑忠」の鈴木家のマナコ壁の邸宅は今も昔の面影を伝えている。 ナマコ壁は耐火性に加えて防湿性にも優れ、潮風を防ぐのにピッタリだったことから、江戸時代、港町下田に数多く建てられた。ナマコ壁の民家の建物の特徴は、勿論ナマコ壁であるが、軒が極端に短く、桟瓦葺の屋根で寄棟の二階建が多い。これらの特徴は海に近いので風雨が激しいからこうなったのだろう。しかしこのようなナマコ壁の家も取り壊されてしまい、ナマコ壁の連なった町並みとはいえないが、ナマコ壁の家が点在する町並みは、やはり下田情緒があり、江戸時代の港町にタイムスリップしたような気分になる。 静岡県の歴史散歩 山川出版社 静岡県日本史教育研究会 1997年 下田の歴史と史跡 豆州下田郷土資料館 肥田喜左衛門 平成11年 松崎の歴史 清水真澄 清水真澄 平成5年 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 |
商家「雑忠」 |
お吉が開いた安直楼 |
レストランもナマコ壁 |
ナマコ壁の民家 |
ナマコ壁の民家 |
ナマコ壁の民家 |