島田市河原の町並み
河原
地図


島田宿大井川川越遺跡の町並
 慶長6年(1601)改めて東海道の宿駅に指定された島田宿は、53次の23番目にあたる。
島田宿は大井川の川越で有名な宿場であった。徳川家康による宿駅指定直後の慶長9年(1604)大洪水により、島田宿は壊滅的な打撃を受け、宿の機能は北の野田村に移されたが、元和元年(1615)に元の宿場を整備して宿機能が戻された。
島田宿(島田町)はじめ幕府領、慶長14年(1609)駿府藩領、元和5年(1619)幕府領、寛永12年(1635)田中藩領、寛永19年(1642)幕府領、享保7年(1722)田中藩領預かり地を経て、寛保2年(1742)幕府領のまま明治を迎える。
天保14年(1843)の東海道宿村大概帳によると、宿内町並は東西9町40間、家数1,461・人数6,727・本陣3・脇本陣なし・問屋1・旅籠48(大6・中7・小35)、宿はずれの大井川端に川合所と川高札場があった。宿内は西から1丁目〜7丁目に分けられ、本陣は2丁目に2軒、3丁目に一軒、問屋は5丁目に一軒があった。
島田宿の延享2年(1745)の家数1,356軒・人数6,333人。天保3年(1832)の家数1,456軒・人数7,048人。
島田宿の主要業務は大井川の渡渉である。交通量の増大に伴い、元禄9年(1696)川越の管理・統制にあたる川庄屋2名が任命され、のち川会所が設けられ、川庄屋のほか年行事・添役などの役人がその運営にあたった。
川会所の付近に川越人足の詰所が10ヶ所あり、人足数は享和3年(1803)の宿明細帳では350人、天保14年(1843)の宿村大概帳では482人、嘉永年間(1848〜54)647人(静岡県志太郡志)。歩行越えによる大井川渡渉は渡し船が用いられる明治4年まで行われていた。
大井川渡渉のため置かれた川会所は川越人足による渡渉全般を取締った。大井川はどんなに水位が低くても旅人の勝手越は許されず、渡渉時間も明け六つ(午前6時)から暮れ六つ(午後6時)までと定められていた。
大井川が雨で増水し水深が4尺5寸以上になると川留めになり、水位が戻るまで島田宿や対岸の金谷宿で逗留を余儀なくされた。箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川」と馬子唄にもうたわれた。
大井川端の河原に川越遺跡(国指定史跡)として川越し当時の町並が保存されている。川越業務を管理運営した川会所、川越人足の詰所であった番宿、川越業務を行う高齢者人足の仲間宿、川札・台札を扱う札場などが復元整備されていた。      
町並み指数 30
参考文献
   静岡県の歴史散歩  山川出版社  静岡県日本史教育研究会  1997年
   角川日本地名大辞典  角川書店  角川日本地名大辞典編纂委員会
   静岡県の地名  平凡社  (有)平凡社地方資料センター  2000年
   日本の町並T  平凡社  湯原公浩  2003年
   旅と歴史2001年4月号(雑誌)  秋田書店  工藤寛正  2001年    


島田宿大井川川越遺跡の町並

川会所

島田宿大井川川越遺跡の町並

島田宿大井川川越遺跡の町並

島田宿大井川川越遺跡の町並

島田宿大井川川越遺跡の町並

島田市博物館分館
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