関ヶ原町関ヶ原は岐阜県西端部、北は伊吹山系に、南は鈴鹿山系と養老山系に挟まれた狭隘の地にある。古くからの交通の要衝で、ほゞ東西に中山道が通り、中山道沿いに関ヶ原宿を形成し、同宿より南東に伊勢街道、北西に北国街道が分岐していた。 関が原村は江戸時代、旗本竹中氏知行地であった。村高は「慶長郷帳」1,404石余、「元和領知改帳」「正保郷帳」「天保郷帳」共に1,904石余。江戸期を通じて中山道の宿駅として栄えた。 延宝8年(1680)の宿高は1,904石余、町の長さ11町30間、家数286・人数984であった。元禄16年(1703)の宿の状況は町の長さ東西12町49間、家数347・人数1,252人であった。 天保14年(1843)の中山道宿村大概帳によると、町並みの長さは元禄16年(1703)当時と同じだが、家数269・人数1,389、本陣1、脇本陣1、旅籠屋33軒、問屋6で、町は東から東町・公門町・仲町・西町と続いた。仲町の北側には高札場、本陣、脇本陣があり、問屋場もこの辺りにあった。宿の中程の公門町に北国街道と伊勢街道の分岐点があったので、旅籠屋や問屋が多かった。旅籠屋33軒の内、大旅籠屋が12軒で、美濃16宿中最高であった。 関が原宿の中心部はバイパスを造ることなく街道が拡張され、国道21号線となったので、町並みの探訪も、ひっきりなしに通る自動車に身の危険を感じながらの町並み鑑賞である。 国道に沿って伝統的な商家の建物が残っているが、どの家も戸締りをして、交通傷害から身を守っている姿は痛々しい。裏側に廻ると騒音と振動に耐えての生活が少し垣間見られた。 かっては、旅人で賑わったこの街道も、今は大型自動車がビュンビュンと通り、住民は逃げ場の無い生活をされている。見るのも気の毒に感じる町並みであった。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 中山道歴史散歩 有峰書店新社 斎藤利夫 1997年 滋賀県の地名 平凡社 (有)平凡社地方資料センター 1981年 |
関ヶ原の町並 |
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