高天神城(現大東町土方)を遠江経略の前線基地とした武田勝頼に対し、徳川家康は天正6年(1578)馬伏城の大須賀康高に命じ、横須賀城を築城させ武田軍の攻撃に備えたのが、今の横須賀城であり、横須賀の町である。 尚、宝永4年(1707)の大地震以前、横須賀には港があったことから横須賀築城は港及び浜筋を押さえるためだったのだろう。 天正9年(1581)高天神城落城後、横須賀城は軍事的要塞としての意義はなくなったが、横須賀城は海上輸送の要衝にあったので、家康は引き続き大須賀康高を配置していた。 横須賀城下に人々が居住しはじめ、天正10年(1582)以降横須賀町と呼ばれるようになった。 初代横須賀城主大須賀康高以来、横須賀の城下町は次第に整えられ、その後の横須賀藩主井上正利や本多利長にも受け継がれ、城下町の拡張と武家屋敷や町人町の整備が行われた。城を中心に武家屋敷が置かれ、その周囲に町家が建ち並んだ。 「横須賀惣庄屋覚書」によれば、町家は城の東に、東本町・中本町・西本町・川原町・16軒町・新屋町・大工町・軍全町・東田町・西田町・東新町・西新町の12町であった。 横須賀築城当時は、南方一帯が入海であったといわれ、横須賀港として発展し、江戸中期までは海上輸送の中継地として繁栄した。しかし大地震による地盤の隆起で港としての機能が無くなり、以後は浜街道による陸上輸送になった。 享保7年(1722)のこれら12町の人数は2,499人であった。 今、町並は東西に走る旧横須賀街道にそって発達している。横須賀街道はほぼ一直線だが、それに交わる脇道はこの横須賀街道と丁字型に交わり、十字路という所がないのは、城下町の特徴であろう。町並は城下町らしい町割りの中に、切り妻造り平入り・中2階建てで格子を備えた商家の建物が点在している。造り酒屋さんもあれば、醤油の醸造元もあり、呉服屋さんから提灯屋さんまで、城下町当時そのままに伝統の味や職人気質で営業されていた。 静岡県の歴史散歩 山川出版社 静岡県日本史教育研究会 1997年 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和57年 静岡県の地名 平凡社 (有)平凡社地方資料センター 2000年 東海・北陸小さな町・小さな旅 山と渓谷社 山と渓谷社大阪支局 1998年 |
横須賀の町並 |
横須賀の町並 |
横須賀の町並 |
横須賀の町並 |
横須賀の町並 |
横須賀の町並 |
横須賀の町並 |
横須賀の旧郵便局で鬼瓦に〒のマークが付いていた |