大垣市墨俣の町並 
墨俣
地図


墨俣の町並
 天正14年(1586)頃より以前は、木曽川がこの辺りで長良川に合流していたようで、揖斐川も近くを流れる輪中地域で、古来、水害に苦しんでいた所である。また交通上も、軍事上も重要な地点であったので幾たびかの戦いに巻き込まれている。墨俣を有名にしているのが、木下藤吉郎が一夜にして築いた墨俣城であり、これにより織田信長の快進撃がはじまるのである。
中世には鎌倉街道が通り、宿場を形成していたが、近世になると宿場が中世の上宿・下宿から現在の墨俣市街に移った。それは天正14年(1586)の大洪水による木曽川の流路変更が渡船地点、宿場の立地条件を変えたものと見られる。
そして江戸期を通じて墨俣は大垣ー墨俣ー起(愛知県尾西市)とつづく美濃路の宿駅として発達した。美濃路は大名もよく利用し通行量が多く、墨俣は美濃路と長良川の結節点の宿場として賑わった。
本陣は中町の澤井家、脇本陣は本町の安藤家が代々勤め、問屋場は正徳元年(1711)から、2ヶ所に増えた。享和2年(1802)の墨俣宿明細書上には家数263・人数1280とあり、旅籠屋大6・小4があって、多くは中町・本町にあった。町並も多くなり、寛政年間(1789〜1800)には7町7間にもなっていた。天保14年(1843)の家数338・人数1317であった。
今町並を歩くと、宿場町の名残を色濃く残している。殆どの家は明治から昭和のはじめにかけて建てられたもののようだが、格子戸であったり、袖壁があったり、中2階建てだったりして、歴史のある町並だということが簡単に理解できる町並である。
町並を歩いた印象は庶民の町という感じで、大きな商家の建物は極限られていたと思う。
町並指数  40
参考文献 
  角川日本地名大辞典  角川書店角川  日本地名大辞典編纂委員会  昭和55年
  岐阜県の地名  平凡社  (有)平凡社地方資料センター  1989年
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