江戸時代、大垣の城下町に対して、赤坂は中山道の宿場町として繁栄した。 赤坂は戦国時代には池尻城主飯沼氏、次いで大垣城主池田氏の所領であったと推定されている。関ヶ原の戦いの際には、大垣城には西軍の大将石田三成が入り、赤坂の北にある岡山には東軍の大将徳川家康が陣を構えたところである。 赤坂村は江戸時代はじめは高須領で次いで幕府領となり、寛永10年(1633)からは大垣戸田藩領で明治維新を向えた。 この赤坂が中山道の宿場として指定される以前は、隣接した青墓が宿駅として利用されていたが、赤坂に杭瀬川の渡し場があって、青墓の宿からこの渡し場まで離れていたため、渡船を待つ旅人のため赤坂宿ができ、青墓の宿は衰退した。 杭瀬川は昔は揖斐川の本流であったが、享録3年(1530)の大洪水で水路が大きく変わって支流になり、川幅も細くなってしまったが、赤坂の上流の池田山からは自然の涌き水が多く、豊富な水量を有し、赤坂湊としての機能を十分に果たし、物資の搬入搬出はこの湊が重要な役割を果たしてきた。一時は300艘の船が出入していたと言われている。 赤坂が中山道の宿駅に指定されたのは、慶安2年(1649)である。その頃、中山道に徳川将軍の宿舎として、各地でお茶屋屋敷が建設されているが、赤坂にもお茶屋屋敷がたてられ、一層宿場町は繁栄した。 赤坂村の家数・人数は正保元年(1644)には182軒・746人。延享3年(1746)には267軒・966人。明和3年(1766)には235軒・870人。文久3年(1863)には331軒・1334人であった(赤坂町史)。 赤坂宿だけをみると、寛政12年(1800)宿の長さは東西6町、高札場1・家数246・人数969である。天保14年(1843)の「宿明細書」によると、戸数は292軒・1129人を数え、本陣は一軒で東町にあり、本陣役ははじめ馬渕家、寛永10年(1633)より平田家、天明6年(1786)より谷家、寛政4年(1792)からは矢橋家であった。脇本陣も一軒で子安町にあり、問屋場は3ヶ所で東町に2ヶ所、羽根町に1ヶ所であった。旅篭屋は17軒。 今、赤坂の町は赤坂湊跡は整備され、噴水のある遊歩道が設けられ、本陣跡は赤坂本陣公園となって、皇女和宮ご降嫁を偲ぶ石碑が立っている。 町並は東から東町・子安町・羽根町と続く。東町には谷汲道と中山道の交差点があり、天和2年(1682)銘をもつ常夜燈と赤坂宿の大きな案内板とが建っていて、この辺りが赤坂宿の中心であった。 赤坂宿の古い町並を構成する民家は、切り妻造りの平入り、中2階建て又は2階建てで、虫籠窓をもった大きな商家の建物も多く残り、宿場町の名残を色濃く残している。 岐阜県の歴史散歩 山川出版社 岐阜県高等学校研究会社会科部会/ 1999 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和59年 中山道歴史散歩 有峰書店新社 斎藤利夫 1997 |
東町の町並 |
東町の町並 |
谷汲街道沿いの町並 |
子安の民家 |
羽根町の町並 |
羽根町の町並 |