岡部宿は鎌倉時代から静岡県の丸子から宇津の谷峠を経て岡部宿と、東海道の宿駅として栄えた。 「吾妻鏡」文治元年(1185)12月16日条に「駿河国岡部宿」とみえ、上洛途中の幕府の使者が当宿で発病し床に伏してしまったので、代人を派遣したなどの記載がある。 江戸時代はじめは幕府領、その後田中藩領を経て、享保15年(1730)幕府領となり幕末に至る。 鎌倉時代から東海道の宿場町であったが、正式な宿場町になったのは慶長20年(1615)であった。寛永12年(1635)に参勤交代制が布かれ増加した東海道の交通量を賄うため、内谷村新町が加宿に指定された。これに伴い問屋場が岡部宿本町と内谷村新町の2ヶ所に置かれた。 天保14年(1843)の東海道宿村大概帳によると、宿内町並は南北13町50間余、家数487・人数2,322(加宿を含む)。本町に本陣2・脇本陣2あり旅籠屋27(大3・中7・小17)。 岡部宿は小規模な宿であったから、大大名などの大規模の通行があると夜具などが不足し、燐宿や近在の村々から借りていたようだ。 岡部宿の次は藤枝宿、そして次が大井川を抱える島田宿。増水になり川越えが困難になると、二つ手前のこの岡部宿も賑わった。岡部の宿の客引きも、「川が止まりました。さきへお出になっても、お大名が五ッかしら、島田と藤枝におとまりでございますから、あなたさまのお宿はござりませぬ」と旅人の袖を引いたようだ。 明治22年東海道線が開通したが、遠くの海岸近くの焼津辺りを通り、交通の要衝としての地理的な利便性がなくなり、ミカンや茶などの農業を中心として発展していくこととなった。 岡部宿の本陣や脇本陣、大型旅籠などのあった宿中心部は、街道が拡張され、最近まで国道1号線として整備されてしまい、古い町並の面影は旅籠一軒になってしまい、当時の面影は全くなくなってしまった。しかし、宿内南半分の内谷に入ると国道1号線から外れたため、古い町並が残り、宿場町当時の面影が各所に残っていて、訪ねたものに安らぎを与えている。 静岡県の歴史散歩 山川出版社 静岡県日本史教育研究会 1997年 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 静岡県の地名 平凡社 (有)平凡社地方資料センター 2000年 東海道を歩く 山と渓谷社 山と渓谷社大阪支局 2001年 |
岡部で残っていた大型旅籠 |
内谷の町並 |
内谷の町並 |
内谷の町並 |
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