鎌倉幕府成立後、この地の地頭に任じられたのは、遠山氏の祖 加藤景廉である。岩村に本拠を置く遠山氏は、中津川・恵那市を含む旧恵那郡、瑞浪・土岐市の一部、木曾馬籠までを支配した。天正2年(1574)甲斐武田氏がなだれこみ、幾多の戦いを経て、鎌倉期以来勢力を誇っていた遠山氏も、苗木遠山・明智遠山の両家を残すのみとなってしまった。 それ以後、当地域は河尻鎮吉・森藍丸・森長可と支配が替わり、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦後、中津川を含む駒場・茄子川などの6ヶ村は木曾代官を命じられた山村道祐・良勝父子を領袖とする木曾衆の知行所となった。その後木曾衆の知行地はそのままで尾張藩領となった。中津川宿が成立したのは、大湫宿(現瑞浪市)が新設された慶長9年(1604)以前と思われる。中津川宿は美濃16宿の一つで、美濃の最東にある落合宿に次いで2番目の宿場であった。 元禄16年(1703)の中津川宿書によると町並10町7間、戸数175軒・人数2,321人であった。享和元年()分間絵図明細書上によると、家数175軒・人数1,230人、旅籠27軒(大10・中8・小9)。本陣1・脇本陣1・問屋2。 天保14年()中山道宿村大概帳では228戸・928人、宿内の町名は落合側より茶屋坂・淀川・新町・本町・横町と分かれていた。宿の中程を流れる四ッ目川をはさみ、問屋・本陣・脇本陣がある本町と商家の多い新町に分かれていた。本町には道路中央に水路が流れていた。枡形は横町にあり、今も当時の姿を残している。 本陣・脇本陣とも遺構は残っておらないが、同じ本町に庄屋だった肥田家の本卯建を上げた建物が残っている。 中津川宿は宿機能の他に、この地方の商業の中心として、穀物・塩・味噌・酒・小間物・呉服・古手木綿・紙類・等を販売されていた。また宿内では六斎の定期市が三・八の日に開かれ、苗木領の諸村から莚(むしろ)・楮(こうぞ)・木綿が持ち込まれていた。 中津川はこのように活発な物資の集散地であったが、一部の商人を除き、大半は農商兼業であった。 現在古い伝統的な様式の商家の建物は、旧本陣や旧脇本陣があった本町二丁目〜本町三丁目(旧横町)に多く残っている。本卯建をあげた重厚な建物が連なった町並は見事なものであった。 商家が多くあった新町は地域開発されて、古き時代と新しい時代が融和した町並みが出来上がっていたが、伝統的な建物は僅かに点在する程度だった。 岐阜県の歴史散歩 山川出版社 岐阜県高等学校教育研究会 1994年 岐阜県の地名 平凡社 (有)平凡社地方資料センター 1989年 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和55年 中山道歴史散歩 有峰書店新社 斎藤利夫 1995年 |
本町二丁目の町並 |
本町二丁目の町並 |
本町二丁目の町並 |
本町三丁目の町並 |
本町三丁目の町並 |
本町三丁目の町並 |
柳町の町並 |
本町三丁目の町並 |