中津川市馬籠の峠集落は岐阜県南東部、長野県と岐阜県の県境を通る旧中山道の馬籠峠の南側直ぐの所に位置する。 平成17年2月13日までは長野県木曽郡山口村馬籠の峠集落であったが、生活文化圏が美濃の中津川市に属するため、早くから越県合併紛争が起こっていた。この問題解決のため県道の中津川南木曽線が昭和34年に開通し、馬籠峠越えの道路整備が終わり越県問題が納まったかに見えていたが、平成の大合併で再び越県問題が持ちあがり、平成17年2月13日をもって岐阜県中津川市馬籠の峠集落となった。 さて本題に入ると、馬籠峠は江戸期から明治中期まで、中山道の宿場町としては栄えた南木曽町妻籠と中津川市馬籠とを結ぶ峠であった。明治25年南木曽町三留野宿から木曽川沿いに、中津川に抜ける賤母新道(現国道19号線)が開通してから、馬籠峠を通る道は裏街道となり歴史の舞台から姿を消した。 馬籠村は馬籠宿を中心に、馬籠峠下の峠集落・中津川寄りの荒町の3集落から成っていた。 峠集落の人達は牛方衆と呼ばれて中牛制度が認められ、牛で荷物を運び駄賃稼ぎをしていた。このことを木曽では「岡船」と呼んだ。これらの人々は名古屋・伊那・松本方面まで荷送りをした。 通常であれば、この峠集落は限界集落で人が住み難い集落になっていただろうが、長野県側が越県問題を避けるため、モータリゼーションの起こる前の昭和34年に早々と県道7号(中津川南木曽線)を開通させたために、集落横を2車線の県道が走り、集落内を自由に車が走れるようになった結果、限界集落でなくなり朽ち果てること無く古い町並が今に残った。 そして今は馬籠宿・妻籠宿の間、もっと言えばJR中津川駅からJR南木曽駅まで馬籠峠を越えるハイキングコースとして多くの人が旧中山道の峠集落内を、熊除けの鈴を鳴らしながら歩いているのである。 角川日本地名大辞典 角川書店角川 日本地名大辞典編纂委員会 昭和55年 岐阜県の地名 平凡社 (有)平凡社地方資料センター 1989年 |
馬籠峠集落の町並 |
馬籠峠集落の町並 |
馬籠峠集落の今井家住宅 |
馬籠峠集落の町並 |
馬籠峠集落の町並 |
馬籠峠集落の町並 |
馬籠峠集落の町並 |
馬籠峠集落の町並 |
馬籠峠集落の町並 |
馬籠峠集落の民家 |