岐阜県中津川市付知町は、岐阜県東部のほぼ中央部、木曽川の支流付知川が南流し、川沿いに細長い河岸段丘の平坦地が開けたところに位置する。 江戸期はじめは苗木藩領、元和元年(1615)より尾張藩領。一般行政は尾張藩美濃国奉行、林政は木曽木材奉行の支配だった。 村高は「慶長郷帳」に村名が見え284石余、「正保郷帳」では田方199石余、畑方84石余で他に新開田畑高112石余がある。 「明暦覚書」では人数1,040、「濃陽志略」では家数274・人数1,717、「濃州徇行記」では家数367・人数2,138、嘉永5年(1852)には家数367・人数2,985、万延元年(1860)の家数534・人数3,161と3倍もの人口増加は、豊富な山林資源により、農耕以外の山仕事によって生活がなされていたことによる。特に檜の大木は優良材として、伊勢神宮遍宮の際の用材をはじめ、各地の神社・仏閣などに使用され、その搬出には多数の杣人・日雇いを必要としたことによる。 だが、木材伐採規制は厳しく、寛文5年(1665)の林制改革、宝永5年(1708)にはヒノキ・サワラ・コウヤマキ・アスヒの四木が伐採停止木になり、その翌年にはネズ(杜松)が加えられ五木になり享保6年(1721)には、ケヤキが追加され六木となった。山村でありながら、自由に出入りできる明山が狭められ、かつその立ち木すら厳しい制限を受け、俗に「檜一本首一つ」と言われるほど厳しく取り締まられた。 古来から中山道と飛騨を結ぶ南北街道(飛騨街道)が村内を南北に通り、その街道に沿って集落が点在していたが、それと交差する形で、明治初期に河湊のある商取引の活発な八百津と、御嶽までの二つの新道が開発され、西濃・尾張・三河方面からの御嶽信者の列があとを絶たず、付知村は宿場町に似た様相を呈していた。 明治41年の付知村統計表によると、旅人宿28軒・料理屋27軒・飲食店30軒・芸奴屋2軒・酌婦23人となっており、山村として当時の盛況ぶりを知ることができる。しかし明治44年の中央鉄道(現JR中央本線)全線開通によって、徐々に商業的性格が失われていった。その後養蚕や絹織物もあったが昭和初期の経済恐慌によって殆ど壊滅し、高度成長期を境に過疎化が進んでいる中、細々と製材や木工産業等が続けられている。 町並は稲荷橋付近から旧道の飛騨街道沿いに北に向かって付知峡倉屋温泉まで約5km程に亘って町並みが続く。今回訪ねたのは5kmも続く町並の中間にある付知中学校辺りから北の上付知と云われる地域。2km以上の長い距離に亘る町並の所々に、伝統的な様式で建てられた民家が連なる。 平入・切妻造り・中2階建て・2階建ての伝統的な様式で建てられた大型の家屋が点在する。明治期に賑わった名残を色濃く残して、現役の旅館や料理屋が多くみられる。 角川日本地名大辞典 角川書店角川 日本地名大辞典編纂委員会 昭和55年 岐阜県の地名 平凡社 (有)平凡社地方資料センター 1989年 |
付知町(上付知)の町並 |
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