瑞浪市大湫(おおくて)は岐阜県の南部、木曽川渓谷の南側、標高500m前後の大湫丘陵上に位置している。 大湫村は慶長6年(1601)の木曽衆知行目録には「大くて村」とみえ、木曽衆山村甚兵衛・千村平右衛門両宗家の折半地で109石余が見える。 大湫村は江戸時代の宿駅制度ができる前は、10軒内外の寒村だったが、そこへ保々宗昌が入村して盛んに開拓をはじめたのは、宿駅制度ができる30年ほど前の天正年間(1573〜92)のことだ。 美濃国内の中山道は大体それまでの鎌倉街道(旧東山道)を基にして整備されたが、御嵩〜大井間は、美濃代官大久保石見守長安の命令によって、日吉本郷〜半原〜釜戸経由の旧鎌倉街道コースを止めて、細久手〜大湫経由の高原上に新道を開くことになる。慶長9年(1604)には入宿者を募り大湫宿を発足させた。 その規模は長さ二町五五間(後に三町十四間352m)、本陣、脇本陣、問屋場各一軒、寺、神社などは現在と同じ位置で、東の寺坂口から西の高札場までが宿場であった。尾張藩領で元禄6年(1693)の戸数62軒・人数110人。文久元年(1861)では戸数110軒・408人であった。寛政4年(1792)では70軒中旅籠が36軒、安政元年(1854)76軒中旅籠44軒であった。 天保14年(1843)の宿村大概帳によると、宿内家数66・人数338。本町に本陣、西町に脇本陣があった。旅籠は30軒(大5・中17・小8)、問屋場は本町にあった。 本陣は宿の道路北側で高台にあって、保々市郎兵衛が庄屋・宿問屋・本陣も兼ね、保々長左衛門が脇本陣を勤めていた。本陣跡は小学校の校庭となっている。 本陣跡前には伝統的な様式の家屋が連なる町並みが続き、宿場町当時の風情が伝わってくる。切り妻造り、中二階建、平入り、桟瓦葺、一・二階とも格子、出格子、荒格子で煙り出しもあり、袖壁があり、くぐり戸つきの大戸を残した家も見られた。 岐阜県の地名 平凡社 下中 弘 1989年 岐阜県の歴史散歩 山川出版社 岐阜県高等学校教育研究会 1994年 ふるさと大湫百話 瑞浪市大湫町コミユニテイ推進協議会 平成9年 角川日本地名大事典 角川書店 角川日本地名大事典編纂委員会 |
大湫の町並 |
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