美江寺村は別名「三人市村」とも言い、揖斐川の東、大垣市と岐阜市のほぼ中間にある。西を犀川、東を五六川に挟まれた平坦地だが、東北部は五六輪中、西北部は七崎輪中、南部は古橋輪中に囲まれた輪中地帯にある。 奈良時代初期に当地に移築されたと伝える美江寺は16世紀に岐阜へ移築されたが、村名といて残された。 江戸初期は加納藩領であったが、幕府領、加納藩領、幕府領、大垣藩領として明治を向かえる。 江戸初期に中山道の宿場が設けられた。寛文5年(1665)の美江寺宿書上によると、中山道に沿う町の長さ5町19間、家数75軒、問屋1で高札場と一里塚があった。 延宝3年(1675)の美江寺宿留書によると、家数89、内59軒は町並み。この内20畳以上の座敷持ちが3軒、6畳以上が5軒、莚(ムシロ)敷座敷一間の家13軒、残り40軒は土間であった。 美江寺宿は犀川と五六川に挟まれた輪中地帯にあるため、豪雨のたびに宿の前後の往還が冠水したので、馬を使わねばならなかった。旅人の休憩や宿泊も少なく宿の経営は困難であった。前項の寛文5年(1665)の美江寺宿書上によると、本陣・脇本陣も、茶屋・旅籠もなく宿場の機能を果たしえない有様だった。元禄9年(1696)藩は酒屋1軒を取り立て、元禄12年(1699)には新町を建設したが、32軒が移転して来たのみで、藩の期待通りには行かなかった。 しかし、江戸中期以降は旅人の移動も、商品の流通も活発になり、宿場も少しは賑わってきたようで、宝暦3年(1753)の家数114、うち旅籠19、茶屋2とあり、天保14年(1843)の中山道宿村大慨帳では家数136・人数582、本陣1、脇本陣無し、問屋1、旅籠屋14、茶屋1とある。 本陣は最初、寛文9年(1669)に加納藩が建てた小座敷一棟で問屋山本金兵衛が管理していたが、その後は問屋山本家が本陣を勤めたが、脇本陣も無い小規模な宿場だった。 今、古い町並みは旧中山道に沿って展開している。古い伝統的な様式の家屋は美江神社前の、中山道が直角に折れる辺りで見られる。何れも切妻造り平入り、中2階建てで伝統的な様式で建てられた家屋で、千本格子や荒格子を残した家も多く見られた。 ただ、明治24年の濃尾地震で、殆ど全戸倒壊しているので、今見られる建物はそれ以後に建てられたものと思われる。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和55年 岐阜県の地名 平凡社 (有)平凡社地方資料センター 1989年 |
美江寺の町並 |
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