伏見宿は中山道の宿場であったが、宿駅制度が定められた当初からのものでなく、90年も後の元禄7年(1694)に出来た宿場です。可児市土田にあった土田宿が木曽川の流れの変化によって、渡し場の位置が上流に移動し、太田に宿場が出来たため土田宿が廃止になり、替わって伏見宿ができたようだ。 しかし、慶長7年(1602)の駄賃定に「伏見」とあり、その後も元和2年(1616)、寛永20年(1643)にも駄賃定が改訂されているので、正式に宿場になるまでにも伝馬宿として役目をはたしていたようで、伏見宿として格上げされたもののようだ。 この宿場の近くに商業地兼山があり、新村湊が木曽川の舟の発着場になり、中山道では珍しく街道の荷物が舟で下ったり、又陸揚げされた荷物も中馬で東海方面に運ばれたので、宿場の荷物が少なく、困窮する宿場になっていた。 幕府は元禄7年(1694)の宿設置以来、御救金30両と問屋給金5両をも年々支給していた。 寛延3年(1750)宿内の火災により防火のために道幅を広げたが、立派な町並にはならず、宿場とは名ばかりで、天明3年(1783)以来街道筋で13戸、町裏で3戸が廃家となるなど困窮を極めていた。また太田陣屋の助力で旅籠屋を10戸建てられたが、町並形成にはならなかった。 天保14年の宿村大概帳では宿内町並は5町16間、家数82・人数485、本陣1、脇本陣1、旅籠屋29(大6・中8・小15)、問屋1。町は東町・仲町・西町があり、本陣は東町に、脇本陣は西町に、問屋は仲町にあった。 嘉永元年(1848)の大火では本陣はじめ26戸が焼失したが、本陣は再建されず、脇本陣が建てられた。 困窮を極めた伏見宿であるが、飯盛り女を多く抱えた女郎屋も多く、遊べる宿場としても賑わったようだ。 今町並は伝統的な様式の建物が数軒残っているだけである。それも旧中山道が国道21号線になってしまい、古い町並は道路の拡張時に取り壊されたのだろう。この古い伝統的様式の家屋の前を、自動車がドンドン通るので、写真を撮るのも苦労する程だ。残っている家屋数は少ないが間口の広い黒漆喰塗りの大きな家屋で見ごたえのある民家だった。 角川日本地名大辞典 角川書店角川 日本地名大辞典編纂委員会 1990年 岐阜県の地名 平凡社 (有)平凡社地方資料センター 1989年 中山道歴史散歩 有峰書店新社 斎藤利夫 1997年 |