三島は三島大社の門前町として、東海道の宿場町として繁栄したところで、明治中期より寂れていたが、昭和8年の丹那トンネルの開通で再び活気を取り戻した町です。 中世より箱根越えの往来が頻繁になっていた東海道には、慶長6年(1601)宿駅が定められ、この地には三島宿が成立した。江戸時代を通じて幕府領で、三島代官支配から宝暦8年(1758)韮山代官支配に代った。元和年間(1615〜24)には将軍上洛の際陣屋となる三島御殿が築造された。 三島宿は下田街道を分岐する交通の要衝として発展した。宝暦9年(1759)の三島宿差上帳によると家数1,190・人数4,228。酒屋(酒造)16・本陣2・旅籠屋74・茶屋19・医師5・紺屋6・大工23・鍋屋1・石屋2・左官3・桶屋1・鍛冶屋10であった。 天保14年(1843)の東海道宿村大概帳には本陣2・脇本陣3・旅籠74があり、家数1,025・人数4,048であった。安藤広重描く東海道53次の内 三島「朝霧」では問屋場の東側にある 三島大社の大鳥居前を、朝霧が出ている寒い早朝、箱根へ向かう旅人と四国へ向かう巡礼者が描かれている。 三島大社の西側に問屋場があり、その西の現本町に本陣2軒が東海道の道筋を挟んで向かい合っていて、この辺りが宿の中心であったが、今は商店街に飲み込まれ本陣の遺構は残っておらず、本陣跡の石碑が立っているのみである。 「富士の白雪やのーえ‥‥‥三島女郎衆はノーエと唄われたノーエ節に登場する三島女郎衆は宿場女郎、飯盛り女といわれ、江戸末期には旅籠の8割位にいたそうだ。 明治22年に東海道鉄道が開通するが、三島町は鉄道敷設に反対したため、沼津から御殿場を経由する現JR御殿場線になあり、交通網から取り残され町勢は衰退の一途を辿った。 しかし昭和9年に丹那トンネルが開通し、三島に駅が設けられたため往時の賑わいを取り戻した。 三島宿は東海道筋でも有数の大きな宿場であったが、宿場町当時の面影がない。東海道と下田街道は三島大社前で交わっていたが、この辺りも道路拡張工事などで古い町並が取り壊されたのか、大正から昭和はじめに建てられた家屋が僅かに点在しているのみで、三島宿当時の面影は全く残っていない。 静岡県の歴史散歩 山川出版社 静岡県日本史教育研究会 1997年 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 静岡県の地名 平凡社 (有)平凡社地方資料センター 2000年 東海道を歩く 山と渓谷社 山と渓谷社大阪支局 2001年 |
大社町の民家 |
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大社町の町並 |
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