美濃市の町並み 
泉町・魚町・常盤町・相生町
地図


泉町の町並

  美濃市は美濃和紙と「卯建」で名の知れた町である。
戦国時代には、この地は佐藤氏の支配であったが、三代目の佐藤才次郎方政は関ヶ原戦にて、西軍に属し岐阜城の攻防戦で敗れて滅んだ。関ヶ原の戦い後、高山城主だった金森長近が高山城を養子の可重に譲り、自らは次男の長光と共にこの地に移り、小倉山(上有知)に城を築き、城下町として現在の町並みをつくった。
目の字形の町筋を今にそのまま残している。江戸時代は美濃紙、生糸の取引を中心に繁栄し、明治44年に町名を上有知から美濃紙にちなんで美濃町と改めた。
中世以前より美濃紙は良質をもってその名が高く、15世紀後半には一大生産地となっている。当時、大矢田には紙専門の六斎市(月六度の市)が立っていた。江戸時代には藩の保護や、一般需要の増加があり、書院紙は天下一品の折り紙をつけられ、大直紙は最高級とうたわれ、幕府・尾張藩御用紙となっていた。
小倉山城跡の北側の長良川に上有知湊跡がある。金森長近により紙専門の六斎市が開かれて以来、この地方の物資流通・交通要所となった川湊である。上有知は美濃和紙の集散地として栄えた。その後、天領、続いて尾張藩領になり、城下町から和紙中心の商業町への転換して行った。
いっこうに立身できないことを、よく「うだつが上がらない」と言う。多額の費用がかかり卯建を上げることは難しかったことから、出世できないことを「うだつ」が上がらないと言うようになった。
卯建とはそもそも隣家との境の妻壁を上にのばして小屋根を設けたもので、これは本卯建とよばれる。板葺や草屋根が多く、隣家との狭い隙間に雨水が入るのを防ぐためにできたものであるが、江戸時代中期には防火壁としての役目が主となったと言われている。
美濃の卯建は脇町の袖卯建とは異なる様式で、本卯建とよばれる様式の卯建だ。亨保8年(1723)の大火以来、美濃の町は防災都市として再建され、類焼を防ぐために卯建が上げられた。しかし卯建も時代とともに防火目的のためから、装飾としての意味合いも加えられてきた。
特に卯建の先端は目立ちやすいため、破風瓦、懸魚が付けられるようになり、新しい時代ほど豪華になってきた。かって、関東以西の日本各地で見られたものだが、美濃では卯建をあげた商家が19棟残っていて、これだけ集中して残っているのはここだけだ。本住町、常盤町、相生町、泉町、魚屋町などに多く残るが、本住町から泉町にかけては卯建の町並みが続く。
そんな中に公開されている今井家がある。今井家は卯建のある商家として美濃市を代表する家で、江戸中期に建てられたもの。表から見える間口も大きいが、想像以上に奥行きがあり、中庭の奥に土蔵が数棟あって、史料館になっていた。
もう一つ美濃市を代表する建物に、国の重要文化財指定の小坂家住宅がある。代々つづく酒造家で主屋から酒蔵まで江戸時代の貴重な建物である。本来は三本卯建の珍しいものであったが、現在中央の卯建は無くなっていた。
美濃の商家の建築様式は、切り妻造りに本卯建、平入り、中二階、漆喰塗り込めの虫籠窓、桟瓦葺、格子で、ときには煙出し、オダレ、バッタリが付いている。
常盤町に二つ並んで卯建があがっていた。明治に入って建てられた家で、共に卯建が上がっていて、二本並んだ卯建はここだけだ。これは隣家との敷地関係で問題があり、この卯建建築以後は全く「卯建」建てられなくなった。
町並み指数 80
参考文献
  岐阜県の歴史散歩  山川出版社  岐阜県高等学校教育研究会  1994年
  飛騨金森史  (財)金森公顕彰会  市制50周年記念行事推進協議会  平成元年
  歴史の町並みを歩く  保育社  高士宗明  平成6年
  東海・北陸小さな町・小さな旅  山と渓谷社  山と渓谷社大阪支店  1998年


泉町の旧今井家

常盤町の町並み

魚町の岡専旅館

泉町の町並み

相生町の商家

相生町の小坂家(酒造)
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