美濃市米屋町辺りは江戸期には上有知村といった。長良川左岸に位置し、鞍部の台地に町場と村方が形成され、村内を郡上街道が南北に通っていた。 関ヶ原の戦い後、上有知に入った金森長近は小倉山に城を築き、東西に走る二筋とこれを直角に繋ぐ小路からなる短形の町割りが為され、それを町方とし、それ以外を村方とした。慶長16年(1611)金森氏の上有知藩は廃藩になったが、城下町から在郷町になり発展を続けた。 上有知村は江戸期を通じて尾張藩領。村高は「慶長郷帳」621石余、「正保郷帳」651石余、「天保郷帳」653石余。寛政年間(1789から1801)の家数537・人数2,025、馬73。 金森氏在城以来交易繁盛の地で、3・8の日に六斎市が立ち、美濃紙・生糸の集散地で楮問屋が多かった。天明3年(1783)には代官所も置かれ、当地方の政治・経済の中心地となった。それは金森氏の繁栄策として長良川に川湊を開き、番船40艘で交易に当たらせたことが大きい。 今回訪ねたのは、上有地村を通る旧郡上街道沿いの町場(俵町)と境を接する村方の米屋町・西市場町辺りである。大店の商家建物は見当たらず、卯建の揚がった家屋も見かけられなかったが、町方に続いて繁昌があったのだろう、伝統的な様式で建てられた古風な建物が連なっている。 本卯建は見かけなかったが、袖卯建を備えた家屋は健在でした。 日本地名大辞典 角川書店 日本地名大辞典編纂委員会 昭和59年 岐阜県の地名 平凡社 下中 弘 1989年 |
俵屋町の料理屋 |
俵屋町の町並 |
米屋町の町並 |
米屋町の町並 |
米屋町の町並 |
西市場町の町並 |
西市場町の町並 |
西市場町の町並 |
西市場町の町並 |
西市場町の町並 |