松崎町は静岡県伊豆半島の西南部にある。 松崎は、古くから伊豆西海岸の中心として栄えてきた港町。松崎も下田同様に室町時代中期から、小田原城を本拠にした北条氏の支配下であったが、天正18年に秀吉軍により下田城も小田原城の落城し、北条氏は滅亡した。豊臣秀吉により関東に移封された徳川家康は、今までの家康領地は秀吉に取り上げられ、かわりに家康には伊豆、相模、武蔵、下総、上総、上野の6ヶ国が与えられた。 家康は天正18年(1590)江戸城に入ると、早速三島代官を置き伊豆もその支配を受けるようになった。江戸時代に入り現松崎町の村々の多くは幕府領であり、松崎村も殆どの期間幕府領であったが、文化8年(1811)から旗本前田氏と相給支配となった。文化8年の戸数190戸(幕府領144・前田氏領46)、人数743人(幕府領650人・前田氏領93人)であった。 江戸は人口100万の大都会となっていた。この多くの人々の生活を支える莫大な量の物資が江戸に集中したが、これらの物資はすべて海路で運ばれた。江戸・大坂間を航行する船も多く伊豆が中継港であった。幕府は元和元年(1616)下田に船番改所をおき、同時に下田奉行をもおいて往来する廻船の大小積荷等を調べた。 その航路の中で遠州灘付近は最大の難所で、特に御前崎から子浦間の駿河湾口を横切ることは、危険な航路であり、悪天候の時は駿河湾内側沿岸沿いに、清水、沼津から伊豆西海岸を通る大廻航路を取った。 江戸時代の後期には松崎は漁業も盛んで、カツオ、マグロ、イワシ、サバ等が主漁でカツオは加工して江戸へ、マグロは清水、沼津へ船で出荷した。特に文化・文政年間(1804〜29)には、夏秋鰹節を製造して江戸へ送った。伊豆日記に上品の名ありと。松崎近辺の村々は鰹節製造が盛んであった。 松崎にナマコ壁が出現したのは、やはり下田同様、安政元年(1854)の下田大津波の影響で、塗り込め造りや土蔵造りは良いが費用が多くかかるので、ナマコ壁にして耐火性、防湿性、防水性のある家を造ったようだ。松崎のナマコ壁で忘れてはならないものに、「伊豆の長八」がいる。松崎生まれの左官職人入江長八は、江戸へ出て狩野派の喜多武清に絵を学び、左官業に応用し、漆喰でもって絵を描き華麗な色彩を施して、長八独特の芸術を完成させた。いわゆる漆喰による鏝絵芸術である。 松崎町のナマコ壁の民家の特徴は、下田と同じで軒が短く壁はどこまでもナマコ壁で張りまわす。桟瓦葺の屋根で切り妻造りの二階建が多く、下田のような寄棟の二階建も一部あるが数は少ない。ナマコ壁の民家が連なった町並みとはいえないが、ナマコ壁の民家が点在する町並みはやはり、南伊豆独特の風情をもっている。 松崎町が明治商家として公開している中瀬家、ナマコ壁通りの近藤家、廻船問屋「駿河屋」の小原家、その他石田家、山光荘、依田家、森家などのナマコ壁の家々が目についた。 公開されている中瀬家の明治商家は、ときわ大橋のたもとにあり、ナマコ壁が主屋も土蔵もすべての建物を取り囲んだ切り妻造りの二階建ての建物。明治初年に依田家により呉服商家として建てられたものである。ナマコ壁通りの近藤家は、やはりナマコ壁で囲まれた間口も狭い奥行きの長い京都の町家のような屋敷であって、江戸時代末期に建てられた切り妻造りの二階建ての主屋が道路に面した商家の建物であった。 静岡県の歴史散歩 山川出版社 静岡県日本史教育研究会 1997年 松崎の歴史 清水真澄 清水真澄 平成5年 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 |
ナマコ壁通り |
ナマコ壁の町並み |
ナマコ壁の民家 |
ナマコ壁の民家 |
ナマコ壁の旅館 |
ナマコ壁の明治商家(中瀬家) |