旧東海道白須賀宿の古い町並は、殆ど残っておらない東海道筋にあって比較的多く残っている町並である。 白須賀は街道としては古くから交通の要衝で、室町幕府六代将軍足利義教は永享4年(1432)に富士山を見に行く途中潮見坂で歌を作り、天文年間(1532〜55)に関東へ旅した法華門徒たちは往復とも白須賀を通っており、室町時代にも江戸時代同様に重要な街道筋であった。 慶長6年(1601)に東海道が整備され、白須賀宿が正式に東海道筋の宿場町となった。宿場は潮見坂の下にあったが、宝永4年(1707)の津波によって壊滅的な被害を受けたため、坂の上の天伯原台地に移転したが、今度は西風が強く火災に見舞われることが多くなった。 江戸時代を通じて幕府領のまま推移している。 慶長7年(1602)の資料によると、町並の長さは10町、町名には東町・橋町・東中町・西中町・高見町・西町があり、家数300軒余。 天保14年(1843)の東海道宿村大概帳によると、宿内の町並は東西14町余、加宿境宿新田を含めた家数613・人数2,704、本陣1・脇本陣1・旅籠27(大15・中2・小10)・問屋1。農業の合間に、男は往還稼ぎや漁猟、女は麻・木綿を織る。 安永2年(1773)の大火により、宿伝馬・問屋のある西部の高見町から東町まで全焼し、200戸余が罹災した。そのため宿の西方の各所に槙の木を植えて防風林・防火林とした。 今でも軒の深い伝統的な家屋がよく残っていて、宿場町当時の面影を色濃く残しているのは、東海道本線が北の鷲津を通ったために、発展から取り残されたのであろう。宿内には枡形(当地では曲尺手(かねんて)という)も残り、防衛的な配慮もされていたし、防火林も残っていた。 これだけ多くの伝統的な家屋が残っているにも拘わらず、本陣や脇本陣、問屋の遺構が残っておらず、その点では少し哀れなひっそりとした町並であった。 静岡県の地名 平凡社 (有)平凡社地方資料センター 2000年 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 東海道を歩く 山と渓谷社 山と渓谷大阪支局 2001年 |
白須賀の町並 |
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