北方村は岐阜と結ばれ、大垣とも近い所の中間の位置にあって、江戸期以来、周辺地域の商業のの中心地として栄えた。 江戸期はじめは加納藩領、寛文8年(1668)からは旗本北方戸田氏知行地。 当地は古代東山道沿いに建てられた円鏡寺の門前町として発達し、旗本戸田氏の陣屋所在地として、付近一帯の商業の中心地在郷町として発展した。 天保9年(1838)では家数538・人数1,943。町は本町・新町・駒来町・仲町・戸羽町・増屋町・俵町・石町の8町に分かれ、市日は1・3・6・8日で月12回。酒造4、塩問屋1、米問屋、魚問屋、桟留(桟留縞・桟留織)問屋等があった。中でも新町の桟留問屋の渡辺家やその一族は江戸表へ多くの商品を売り捌き巨利を得、大名・旗本の御用達に命じられて金融業を営み、大名貸しを行っていた。 桟留縞とは安土桃山から江戸初期にかけてインドのサントメから輸入されたことから、その名がついたと言われる高級綿織物で、江戸後期に濃尾地方で盛んに生産されたものです。 この繁栄は明治にも引き継がれた。明治16年の家数641・人数2,874であった。 今かっての町並は当時のままの繁栄とは云えないが、活気のある町並みのようだ。 中2階建て、切妻造り・桟瓦葺きで平入りの大型商家の建物が軒を連ねている。多くの家が商いを止めておられるのが気になるが、本卯建を備えた家もあり、活気ある町並みで、なかなか見応えのある町並みだった。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和55年 岐阜県の地名 平凡社 (有)平凡社地方資料センター 1989年 |
北方の町並、本卯建があります |
北方の町並 |
北方の町並 |
北方の町並 |
北方の町並 |
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北方の町並 |
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