笠松町は濃尾平野の東北部に位置し、木曽川の右岸に沿っている。江戸期には重要な河湊として栄えた。 天正14年の大洪水で、木曽川は今の流路になったが、それまでは今よりもっと北側を流れていて、笠松町辺りは尾張国葉栗郡に属していたようであるが、洪水で木曽川の流路が変ったことで、美濃国羽栗郡となったと云われている。 この大洪水によって生まれた荒野は順次開発が進められ、河湊と渡河場付近の宝江野(元和年間以降笠松という)は発展し、栄えていった。 江戸期を通じて笠松は幕府領で、寛文2年(1662)に笠松陣屋が置かれ、行政の中心地となった。陣屋設置後には、4日・9日の六斎市も始まった。文化7年(1810)の村明細帳によると、家数492軒・人数2017人であった。 笠松は木曽川舟運の中継地として大きく発展した。名古屋・四日市・桑名辺りから海産物・塩・古着などの商品が笠松に陸揚げされ東濃・木曾谷方面へ運ばれた。上流の美濃地方からは年貢米・材木・薪炭などが河を下ってきて、江戸・大坂へ送られた。また岐阜町への物資も笠松で陸揚げされて駄送された。そのため笠松はこれらの物資を取り扱う問屋や商店が軒を並べ、物資集散地として大いに繁盛していた。 この笠松がいっそう発展するのは、明和〜天明年間(1764〜89)に桟留縞及び縮緬織物の産地になったことである。文政年間(1818〜30)に結城縞が絹綿交織に改良され、京都に出荷するようになった。この発展のもととなったのは、周辺農村が水害を受けやすい米作を敬遠し、木綿の作付けを歓迎したので、原料確保が容易であって、織子も得やすかったことによる。 明治に入ると桑名から小型蒸気船が一日2往復し、ますます河湊は活気づいた。 明治6年に笠松から県庁が岐阜町に移り、以後商工業都市として発展していくことになった。 明治の前期には、江戸時代に成長した羽二重・縮緬などの絹織物が、他との競争に負け綿織物に生産転換していった。 また明治24年の濃尾大震災では、家屋の8割が倒壊し、殆どが類焼するという大被害が生じ、明治29年には大洪水もあり、壊滅的な打撃を受けている。 今、河湊跡は公園として整備され、一部に車輪が地面に食い込まないように敷かれた「石畳」が残っている。古い町並みは旧河湊の近くの町に多く残っているが、中でも西町・東宮町・八幡町には伝統的な商家の建物が連なって残っていた。 切り妻造りの中2階建て、桟瓦葺きの平入りで、かっては虫籠窓であったのだろうが、今は多くの家でガラス窓に変っていた。殆どの建物は明治24年の濃尾大震災以後に建てられたであろう家が多く、どの町並みも落ち着いた景観で、商家の建物であっても今は仕舞屋になっていた。 岐阜県の歴史散歩 山川出版社 岐阜県高等学校教育研究会 1994年 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 |
西町の町並み |
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東宮町の町並み |
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八幡町の町並み |
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