可児市兼山? 可児市の飛地になっている。2005年の合併で兼山町は可児市に合併したが、その間に御嵩町が挟まっている完全な飛地。 木曽川中流域左岸にへばりついて町並みが形成されている。それも重厚な商家の建物が連なる予想外の町並み展開があった。 美濃攻略を進めていた織田信長は、永禄8年(1565)戦功をあげた森可成にこの地方を与えた。森可成は斎藤道三の養子となった斎藤正義の城 鳥ヶ峰城を金山城と改め、以後、長可・忠政と続く森氏7万石の居城となった。長可は信長に従軍中に近江で戦死し、その子長可が2代目となり、その弟欄丸・坊丸・力丸も信長に良く仕えた。欄丸は本能寺で信長と共に殉死した。 2代目城主森長可は、金山湊の塩問屋を村の東部に移転し魚屋町をつくり、下町(常盤町)に諸商人を集めて商人町に、古町(城下町)を職人町にするなど、城下町造りに務めた。渡町(城下町)は船頭・船宿・問屋などの湊町とした。 関ヶ原の戦い後、金山城主森忠政は信州川中島へ転封され、金山城は取り壊されて、金山村は幕府領となるが、元和元年(1615)尾張藩領となり、兼山と改められた。 江戸時代に入り、商品経済が発達し、商品生産・流通が盛んとなり、河湊を持つ兼山は商業町とし発展した。河岸の古町・渡町は古くから六斎市が許されており、荷船は12艘もあり、岐阜や上有知町へと交易し、諸商品の動きが活発で、酒屋が25戸程もあった。 河湊の下り荷は廻米で1艘に30俵積まれて、多い日には一日15艘も出航していた。上り荷は初期には塩・海魚が中心であった。とくに塩は魚屋町の塩問屋が専売権を持ち東美濃から木曽谷まで販売していた。その後一般商品が多くなり、肥料・呉服・油・日用品・菓子などであった。各地から商人が集まり、活況を呈した兼山湊であった。 しかし、江戸後半になると下流の交通便に恵まれた新村湊(現御嵩町)・野市場湊(現可児市)などの利用が増え、また塩の専売権や市の賑わいも次第に上流の黒瀬湊へと移っていった。「濃州徇行記」にはかって諸村から買い物客が集まり、豪家が並んで酒屋25軒、船12艘もある交易の地だったが、寛政年間当時には既に商いは衰え富家もなく、酒屋は5軒、船3艘に減少していると記している。 この地は土地が石地で、水田が少なく、畑地が多く木綿栽培には適していた。 明暦覚書では人数1,515。「濃陽志略」では家数356・人数1,168とあり、寛政年間(1789〜1801)(濃州徇行記)では家数320・人数989で、大きく衰退していた。 それでも河湊としては機能していてたが、鉄道の普及・道路の整備により明治末期にはその役割を終えた。しかし、この地では江戸期の初めから「棒手振」と称する行商人がおり、その他繭を扱う仲買人も多く、大正初期には全戸数の4割が商業に従事する商業町であった。 県道381号線の山側の旧道沿いに古い町並みが展開する。思わぬ重厚で伝統的な様式の家屋が連なる。3階建ての土蔵も残っている。明治36年建築の旧兼山郵便局の近代建築も残っている。明治18年建築の木造3階建ての旧兼山小学校も改修されて、今は可児市兼山歴史民族資料館として残っている。 明治の末頃までは栄えていた商業地だから、伝統的で重厚な商家の建物が残っているのは当然と言えば当然だが、今は単なる住宅地になっている。切妻造りで袖壁を備えた平入りの家屋が古い町並みを構成している。でも取り壊されたと思われる、空き地も多く目につきこの先どれだけ古い町並みが維持できるかは、まあ考えないでおこう。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和55年 岐阜県の地名 平凡社 (有)平凡社地方資料センター 1989年 |
兼山の町並 |
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兼山歴史民俗資料館 |