鵜沼村の村域は東西・南北約1里10町程で、宝暦年間(1751〜63)の戸数661・人数2,815。村内北寄りに中山道が通っている。慶安4年(1651)には西町・東町に鵜沼宿が設けられた。 中山道の古道の道筋は現在の鵜沼古市場町から鵜沼南町を経て鵜沼渡で木曽川を越えていたが、慶安4年(1651)に中山道の道筋付け替えがあって宿は北部に移動し、以後は木曽川北岸のルートになった。 寛政3年(1791)の鵜沼村絵図や分間延絵図などによると、宿内は西町と東町に分かれ、西町には東から本陣・問屋場・脇本陣が並んで建っている。大安寺川を境に東町には108戸・540人、このうち宿内に50戸(上旅籠屋7・中旅籠屋18・百姓家25)、西町には88戸・360人、このうち宿内に29戸(上旅籠屋7・中旅籠家8・百姓家14)とある。 西町の本陣は桜井家が問屋と兼ねて勤め、南町から移って来たという。脇本陣の坂井家も西町に住したが、天保期以降は東町の野口家が問屋を兼ねて勤めた。 天保14年(1843)中山道宿村大概帳によると宿内町並は東西7町半8間、家数68・人数246、本陣1、脇本陣1、旅籠25(大8・中7・小10)。問屋場は東町・西町に各1であった。 今町並は一部の大型家屋が残っているのみで、寂しい町並になってしまっている。明治24年の濃尾大地震により壊滅的な打撃を受けたためで、残っている家屋もその後の建築のようだ。宿場町だった名残も常夜灯・案内板程度で余り残っておらない。でも平入り中2階建て、虫籠窓・格子戸をもつ大型商家の建物が連なっている光景は印象に残り、本陣の桜井家は建て替わっているが、土塀は宿場町当時のもののようだった。 角川日本地名大辞典 角川書店角川 日本地名大辞典編纂委員会 昭和55年 岐阜県の地名 平凡社 (有)平凡社地方資料センター 1989年 中山道歴史散歩 有峰書店新社 斎藤利夫 1997年 |