海津市平田町今尾は 岐阜県南西部、揖斐川中流部左岸に位置する。江戸期は低湿な輪中地帯で、高須輪中の北端に位置していた。 江戸期はじめは市橋長勝氏領、元和元年(1615)より尾張藩付家老竹越正信領となり明治を迎える。 今尾村の村高は「慶長郷帳」では967石、「正保郷帳」では829石余、「天保郷帳」1,224石余、「旧高旧領」1,340石余。 輪中地帯にある当地は、人々がこの地に住み始めて以来、洪水の被害を受けてきた。その度に人々は被害箇所を直し、堤防を造ったりして水魔と闘ってきた。 明暦覚書によると、人数1,023、馬62とある。「濃州徇行記」では家数402・人数1,749、馬11。明治5年の村明細帳によると家数405・人数2,014、馬8とある。 「濃州徇行記」によると町筋には100戸ほどの農商を兼ねる者があり、北町・東新町・下町・上町・舟渡町・堤町・新町・横町・寺内町・東町・元町・入川・中入川などの町が並んでいた。正徳4年(1714)の今尾村絵図をみると竹腰氏の居館の南側に南北に一筋、東西に4筋の町通りが通り、瓦家・茅家・板家が連なっている。 大垣と桑名を結ぶ揖斐川水運の港町としても栄えていた今尾には、古くから市が立ったり、途絶えたりしていた。元禄13年(1700)竹腰友正は1・6の六斉市を再開させたが、その後の大火事で中止されたり、又復活したりを繰り返した。 享保8年(1723) に竹腰正武は米会所を開設させ、一時中止となった時もあったが、米会所は明治まで続いた。 明治5年の村明細帳によると、大工15・船大工5・木挽13・左官11・石工8・鍛冶5・紺屋4・風呂屋2などの職人がいた。 いま、今尾の町並を歩くと輪中地帯の名残の高い石垣の上に蔵が建つ光景が僅かだが見られる。洪水で悩まされた証である。町は小さな在郷町的な性格で、近隣の人々の需要をまかなう食料品や衣類・雑貨店などがひっそり佇んでいる。平入の伝統的な様式で建てられた家屋が多く残っていた。 中2階建ての建物も多く残るが、これらの建物も明治24年の濃美地震の後で建てられた建物と思われる。 岐阜県の歴史散歩 山川出版社 岐阜県高等学校教育研究会 1994年 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 |
平田町今尾の町並 |
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