岩村町の町並み 
本町・岩村町・殿町・西町
地図


旧上町の町並

  岩村町は岐阜県の南東部にあり、800余年の歴史をもつ城下町である。
戦国時代に入るまでこの地を支配したのは加藤姓を改めた遠山氏であった。戦国時代に入り、岩村は甲斐の武田信玄と尾張の織田信長の抗争の接点地となって、岩村城は激しい攻防戦に巻き込まれた。
元亀元年(1570)織田軍に属した岩村城主の遠山景任未亡人(修理夫人)は武田軍の秋山晴近と婚姻すると言う条件で無血開城し岩村遠山家は滅びた。
天正3年(1575)織田信長は三万の大軍でもって秋山氏の岩村城を攻め、五ケ月間の攻防のすえ岩村城は信長軍の手により落城した。
織田方に落ちた岩村城はその後、河尻秀隆、森蘭丸、森長可、森忠政、田丸直昌と激しく城主が変わり、関ヶ原の戦い後、慶長6年(1601)から松平家乗2代(2万石)、寛永15年(1638)から丹羽氏信5代、そして元禄15年(1702)松平乗紀から始まり、享保末年(1735頃)から加増されて3万石の城下町として発展したが、7代目松平乗命のとき明治維新を迎えた。このように岩村は江戸時代を通じて、岩村藩領のままで明治になっている。
岩村の城下町については、戦国時代以前の城下町は城の北方にあったが、武田と遠山・織田による数次の戦乱により殆ど灰塵と化した。
そこで岩村城主河尻秀隆は城下町を城の西方へ移すべく、まず岩村川の左岸の、東から西へ通ずる道路を中心に町人町を作り家屋を連ねさせた。また、岩村川右岸には武家屋敷を置き、川を渡ることなく登城の道を開いた。そして関ヶ原の戦い後に入封した松平家乗も城下町の移転を続けて一応の完成を見た。
現在の本町通り(旧上町、中町、下町)の町並の基はその時に造られたものである。道路には枡型を造り、上町には主として職人が住み、大工、指物師、葺屋、石屋、鍛冶屋、畳屋、蹄鉄師などが軒を連ね、また織物染物の仕事場もあった。中町、下町には商家が並んだ。
昭和63年の調査によると139戸のうち、52戸(37%)が江戸時代、27戸(20%が明治時代の建築であった。木村家、浅見家、勝川家、土佐屋、水野家等が代表的な町家だ。江戸時代以来の伝統的な町家は、石置き板葺屋根で、中二階建であったが、今は石置き板葺から桟瓦葺や鉄板葺屋根に変わった。
岩村町の伝統的な民家は切り妻造りの中二階建て、平入り、格子、出格子、桟瓦葺きが一般的であり、中にはナマコ壁であったり、武者窓が付いていたりするが、江戸時代初期から現在に至るまでの各時代の民家が軒を並べて混在している。

岩村町は今 女城主の町として売り出している。尾張の織田信長は甲斐の武田信玄との戦いに有利になるよう、岩村城主の遠山景任に叔母の修理を嫁がせ、自分の五男の御坊丸を養子として岩村城に遣わして、東濃を織田方に引き込んだ。しかし、天正元年(1573)に武田信玄軍の秋山晴近の岩村城攻撃が始まった。
そのときには遠山景任は病没しており、信長の叔母修理夫人が城主として戦ったが、秋山晴近は景任(修理)未亡人に自分との婚姻と、御坊丸の家督相続を条件として開城するという条件を出してきた。
領民を戦に巻き込まないとの一念で、この条件で開城し、晴近夫人になったが、御坊丸は条件に反して甲府へ人質として送ってしまった。これを許さぬ織田信長は三万の大軍でもって、秋山晴近と修理夫人(叔母)のいる岩村城を攻撃し、助命を条件で開城したが、城主以下5人を処刑し、城兵も残らず殺してしまったという。
岩村城の長い歴史の中でただ一人の女城主“晴近との屈辱的な結婚”を余儀なくされた景任未亡人の心中は領民を戦いの犠牲から救う一念であった。このことが今、岩村町が「女城主の里」として観光に力をいれている由縁である。
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参考文献
  岐阜県の歴史散歩  山川出版社  岐阜県高等学校教育研究会  1994年
  女城主の里/いわむら  町企画商工観光課  町づくり実行委員会  平成10年
  角川日本地名大辞典  角川書店  角川日本地名大辞典編纂委員会 


旧上町の造り酒屋

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