揖斐川町の町並  
三輪
(上町・中町・下町・上新町・下新町・栄町)
地図


栄町の町並

  揖斐川の町は、濃尾平野の西北に位置し、伊吹山系の山々が平地になった高台で、濃尾平野を望むことができるため、古くから美濃一帯を制圧するための要衝の地として開けた。
天正期には揖斐氏の家臣堀池氏が揖斐城主になって、三輪村で城下町経営により市街地が造られた。関ヶ原の戦い後、揖斐城主には西尾光教が転封され、西尾氏によって城下町はいっそう整備され、早くから町並みの景観を呈していたという。
三輪村は元和9年(1623)西尾氏2代嘉教の没後、幕府領となり、寛永8年(1631)からは美濃国奉行岡田氏の陣屋も置かれ、岡田氏の支配のもとで明治維新を向えた。
陣屋の近くには家中屋敷が並び、揖斐地方の商業・交通・政治・文化の中心地であった。
三輪村の延享2年(1745)の揖斐町間口帳によれば「伊尾町六組」387軒があり、上町・中町・下町・上新町・下新町・七間町の町名がある。
天保9年(1838)の「巡見使尋答書」によれば三輪村400軒のうち300軒ほどが揖斐町を形成し、人数は1300人ほどで、毎月9斎市が立ち、薪炭・塩・味噌・イワシ・米・麦・大豆・蝋燭・油などが売買されていた。
明治2年の村明細書によれば家数400・人数1042人であった。
揖斐町は古くから揖斐川を交通・運輸の幹線として、多くの船を持ち明治初年では500艘近い船があり、相当数の荷船が上下していて、物資の集散地として富裕な商人が多く存在した。彼らの家・屋敷などが今に古い町並として残っているのである
古い町並は上町・中町・下町や栄町などに残り、城下町から続いた物資の集散地・在郷町であった頃の面影を偲ばせている。
町家は切り妻造り、中2階建て、虫籠窓を備えた漆喰塗り込め、平入り、桟瓦葺きで、入り母屋造りは殆ど見られ無かった。
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参考文献
  岐阜県の歴史散歩  山川出版社  岐阜県高等学校研究会社会科部会  1994
  日本地名大辞典  角川書店  日本地名大辞典編纂委員会  昭和59年
  岐阜県の地名  平凡社  下中 弘  1989年   


上町の町並

中町の町並

中町の町並

中町の町並

下町の町並

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