羽島市竹鼻町の町並 
竹鼻町
(小字名は竹鼻町宮町・竹鼻町大西・竹鼻町下城・竹鼻町上城)
地図


竹鼻町下城の町並み
 羽島市はは東に木曽川、西は長良川に囲まれた海抜平均5mの平坦地である。かっては水害の常襲地であったが、宝暦年間(1751〜64)の三河分流工事の完成や輪中堤の増強、排水ポンプの完備などにより水害は少なくなり、穀倉地帯や織物産地として栄えた。
中世の竹鼻には竹鼻城があり、不破氏が在城したが、小牧・長久手の戦いで羽柴方の水攻めで落城し、次いで秀吉方の伊木忠次が城主となったが、関が原の戦いで西軍に属したため。廃城となった。
羽島市域は笠松同様、天正14年(1586)の大洪水までは今より北西を流れ、尾張国であったが、洪水により流路が南に変ってしまい、この地は美濃国になってしまった。
この地は水との戦いに明け暮れている。慶長14年(1609)に名古屋などの尾張を守るため、木曽川対岸に堅固な「お囲堤」が築造され、羽島市域は水害の多発地帯になってしまった。このため村々では自衛のため輪中を形成し堤を築造した。この竹鼻町が含まれるのは桑原輪中で23ヶ村で囲まれた総石高は1万2000石余りであった。
輪中が形成された後も水害の多発は解消されず、毎年治水事業が延々と続けられた。
水害地帯のため稲作が不作のときが多かった。このため18世紀後半からは木綿縞の生産が盛んとなった。
竹ヶ鼻村は寛政年間(1789〜1801)の戸数は418軒・人数957人であった。古くから六斎市が開かれ、近隣諸村より集まる物資交易の地であった。天保時代(1830〜44)には在郷町として、また木綿縞の特産地として発展し、他に蚊帳も当地の名産品であった。町並みは逆川西岸沿いに形成され、北から新町・上町・本町・中町・下町・上鍋屋町・下鍋屋町など13町があった。明治24年の濃尾大震災では、半数以上の建物が壊れたり焼失した。
今、古い町並みは竹鼻町に展開する。江戸末期から明治期の近隣の物資集散の在郷町時代に建てられた建物のようで、大多数は濃尾大震災後に建てられた建物だ。
この町並みも偶然知る機会があり、期待せずに訪ねたが、国の重要伝統的建造物群保存地区にも匹敵する町並みが残っていた。
町並みは明治後期に建てられたものが多いので、切り妻造り中2階建て、平入り千本格子の家屋であっても、虫籠窓の備わったのは少なく、大多数の家ではガラス窓になっていた。それでも切り妻造りの中2階建て千本格子の連なる町並みは、古い町並みを強調しているようで、見るものに安心と安らぎを与えているように思えた。
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参考文献
   岐阜県の歴史散歩  山川出版社  岐阜県高等学校教育研究会  1994年
   角川日本地名大辞典  角川書店  角川日本地名大辞典編纂委員会 
  

竹鼻銀座の造り酒屋

竹鼻町下城の町並み

竹鼻町下城の町並み

竹鼻町下城の町並み

竹鼻町宮町の町並み

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