郡上八幡は正しくは郡上郡八幡町といい、「郡上踊り」と「清流の流れる城下町」として知られている。岐阜県の中央部よりやや南西に位置し、鵜飼いで知られた長良川の上流で合流している吉田川の両側に開けた町で、町域の93%を山林が占める町だ。 戦国時代の末期に八幡城が築かれてからは、奥美濃中核の城下町として発展してきた。 八幡城は永禄2年(1559)に遠藤盛数が東氏を滅ぼして、八幡山に砦を築いたのが最初である。関ヶ原の戦い後、慶長6年(1601)〜同8年にかけて、郡上藩主遠藤慶隆が大々的な城普請を行い、およそ現在の遺構のような形ができあがった。その後、藩主遠藤常友が八幡城の大修築を行い、城下町の整備に努力した。 遠藤常友が郡上藩主になって6年目の承応元年(1652)に大火事が発生したのをきっかけに、常友は城下町の大改造を図り、寛文7年(1667)に完成させた。現在の八幡町の骨格はこの時に形成されたものである。 即ち元禄5年(1692)の「城下町家帳」によると本町・鍛冶屋町・橋本町・大坂町・肴町・横町・職人町・新町・今町の記載があり275戸の家数を数える。 元文元年(1736)より藩主は金森頼錦になったが、農民への保護や同情に配慮しなかったので、宝暦4年(1754)に宝暦騒動がはじまり、頼錦は治世怠慢の責任を問われ、金森家は断絶した。同年丹後国宮津の城主青山幸道が郡上へ入り八幡城主になり、以来青山氏は郡上藩の領主として7代111年続き明治維新を向えた。 明治5年の八幡町の戸数は431軒・人数2099人で、大正13年の戸数1985軒・人数8521人であった。 柳町や職人町・鍛冶屋町には古い町並みが残っている。といっても、郡上八幡の町並みは大正時代の大火の後で建てられたものが殆どで、袖壁の切り妻造り、二階建て、平入り、一部紅殻格子の民家で、間口が3間から3間半のこじんまりした家である。 郡上八幡のこの地は規模の大きい鍾乳洞が数多くあることからわかるように、大量の石灰岩が埋もれている。また地層が波状に曲がっていて保水力があり、年間雨量も多いことが重なり、地域全体がミネラルウオーターの製造工場のようになっていて、いたるところに湧き水や冷泉が湧き出している。全国名水百選の一番手に選ばれた宗祇水は、吉田川に注ぐ小駄良川に架かる朱色の清水橋のたもとに小さな祠があり、泉がこんこんと湧いている。石で囲った湧き水口からこんこんと澄んだ冷たい水が湧き出していて、柄杓ですくって口に入れるとなめらかな感じの味がした。 周りの山々から多くの流れが吉田川に流れ込んでいるが、その渓流を引き込んだ用水が町の中を縦横に年中流れている。江戸時代初期の遠藤常友が藩主のときに大火があり、その時に作られた町割が今に残り、防火用にと作られた柳町用水や島谷用水が八幡の町中に、きれいな清流を常時サラサラと流している。 柳町・鍛治屋町や職人町の道の両側に清らかな水が勢いよく流れていて、職人町の全ての家の軒先に防火用の赤いバケツが吊り下げられていて、大火の歴史の教訓にもとずいたものであろう。 おもだか屋民芸館と斉藤美術館の間に「やなか水の小路」があり敷石の横に清らかな水が流れ、緑の枝垂れ柳も植えられていて、郡上八幡の天然水が飲めるように、水飲み場が作られていて、土地の人が子供連れで喉を潤していた。 夏の夜を彩る「郡上踊り」は毎年7月中旬から9月上旬の31夜、町内各所の縁日で催され、とくに8月13日〜16日の徹夜踊りは、大勢の観光客で賑わう。郡上踊りには9種類あるが、誰でも自由に参加でき、踊るのもあまり形にこだわらないというところが、徳島の阿波踊りと大きく異なるところで、近年多くの観光客が押し寄せるゆえんであると思う。 岐阜県の歴史散歩 山川出版社 岐阜県高等学校教育研究会 1994年 八幡城ものがたり 八幡町 八幡城ものがたり編集委員会 平成3年 郡上八幡の本 はる書房 郡上八幡まちづくり誌編集委員会 1992年 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和55年 |
職人町の町並み |
柳町の町並 |
橋本町の町並み |
職人町の町並 |
宗祇水とその周辺 |
やなか水の小路 |