白鳥は長良川の最上流部で郡上郡の北西部に位置する。中世から白山信仰にかかわっている。白山はすでに8世紀に「越の大山」として「万葉集」にも歌われ、平安初期にはすでに山岳修験の霊場として著名であった。この白山崇拝の美濃側からの登山道は、洲原神社(現美濃市須原)から白山中宮長滝寺(現郡上市白鳥町長滝)に至り、白山中居神社(現郡上市白鳥町石徹白)を経て白山に至るものである。この白山信仰は平安中期以降の修験道の隆盛と結びつき、鎌倉・室町期に全盛期を迎え、「山に千人、麓に千人」と言われる盛況であった。 白鳥もこれらの参詣者で往来も賑わっていたのだろう。二日町・三日市・八日町の市場地名が残っているなど、六斎市の存在もあったようで、街道沿いに小さな町場もあったと思われる。しかし江戸期に入っても、白山信仰の衰退もあって、在郷町として発展せず、僅かに1月6日の長滝寺の祭礼に800人〜1000人の人が集まり、露店が出るにすぎなかったようだ。 江戸期を通じて郡上藩領で、宝暦6年(1756)の郡上郡村々高覚帳では家数85とある。安永2年(1773)の「郡上領地留記」による物産は、ワラビ・干栗・渋とあり、明治5年の村明細帳によると家数139・人数672とある。 在郷町として発展する立地条件は備えているのに、大きく発展しなかったのは意外に思うが、それでも越前へ向かう往来の向小駄良には口番所が置かれていた。この口番所を西に登った油坂峠は戦国期には多くの軍団が往来し、平時は重要な物資の流通路であったので、在郷町として大きく発展はしなかったが、政治・経済の拠点として機能していたのは間違いない。 国道は町中を外れて長良川の右岸を通ったため、古い町並みは比較的保存された状態で残っている。大きな間口で袖壁を備えた出桁造りの重厚な建物が点在している。板貼りの屋根がそのままトタン屋根になっているのは雪国の特徴だが、一階の軒が北陸地方に多い柿葺(こけらふき)になっているのは、越前や越中との交流が強かった証と思われる。 今この町を歩くと、在郷町として成り立っていたようで、造り酒屋もあれば呉服屋さんもあり、とても江戸時代に在郷町として発展してなかったとは思えない。 明治40年に大火が発生し、白鳥の中心地の150戸余りが焼失しているので、今見られる建物はそれ以後に建てられたものだ。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和55年 岐阜県の地名 平凡社 (有)平凡社地方資料センター 1989年 |
白鳥町白鳥の町並 |
白鳥町白鳥の町並 |
白鳥町白鳥の町並 |
白鳥町白鳥の町並 |
白鳥町白鳥の町並 |
白鳥町白鳥の町並(出桁造りを改造したのでしょうね) |
白鳥町白鳥の町並 |
白鳥町白鳥の町並 |
白鳥町白鳥の町並 |
白鳥町白鳥の町並(出桁造りを改造したのでしょうね) |