神戸(ごうど)は中世には東山道に沿った交通の要衝にあり、神人の商活動が基礎となり門前市が発達し、門前町として栄えた所です。 江戸期に入り東山道に代わり中山道ができたため、大きな打撃を受けたが、依然西濃地方の物資集散の一大中心地だった。曽根城主秋葉一鉄の保護にはじまる九斎市は4.7.10の日に開かれ年間108回も行われていた。大垣から持ち寄った商品や、村々で生産された箕・米・櫛などが売られていた 享保6年(1721)の神戸村の人数は1,833とあり、寛政年間(1789〜1801)の家数322・人数1,540。明治5年では家数414・人数1,602とある。 神戸の町並は「大門通九町九間」といわれ、日吉神社正面に道幅15mの南北の大通りがあった。道の両側には米・味噌・油・酒・雑穀・小間物を商う商店が軒を連ね、江戸期を通じて繁栄していた。 明治に入ってもこの地方は農業の発達した地域で、生活は比較的安定していて、自作農は87%もあったが、米作しかない農家の購買力は弱くかったのと、新興の池野の市の圧倒され、神戸の町は商業不振が続いた。 こうした中で明治24年の濃尾大地震で全壊52%と多大な被害をうけた。水害も多く明治18・21・28・29年と揖斐川が決壊している。 今古い町並は日吉神社前の大通りに面して展開している。だが殆ど伝統的な様式の商家の建物で商いがされておらず、普通の住宅になっている。かっての繁栄の余韻は色濃く残るが、今では15mもの広い通りの両側に商家の建物が佇んでいるのみであった。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和55年 岐阜県の地名 平凡社 (有)平凡社地方資料センター 1989年 |
神戸の町並 |
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