岐阜城山麓の町並み 
玉井町・元浜町
地図


玉井町の町並
  長良川の鵜飼いと金華山で知られている岐阜市。長良橋のたもとに聳える山が金華山(標高338m)で、山頂の岐阜城とともに岐阜のシンボルである。
この城は古くは稲葉山城といった。「美濃明細記」などによれば、建仁年間(1201〜04)に二階堂山城守行政(鎌倉幕府の政所寄人)が初めて、この山頂に築城したという。近代的城郭にしたのは斎藤道三である。
斎藤家の美濃支配は、道三、義龍、龍興3代で終わり、永禄10年(1567)隣国尾張の大名織田信長が城を攻略した。信長は城下町の復興に努め、楽市楽座制をしき商人を招いた。永禄12年(1569)、この地を訪れたポルトガルの宣教師ルイス=フロイスは「8000ないし1万の人口を数え、バビロンの混雑を思わせる程」と信長入城2年後の城下の繁栄を伝えている。
町はそれまで井ノ口と呼ばれていたが、信長の命により岐阜と名づけられた。その後、岐阜城は織田信忠、信孝、池田輝政、豊臣秀勝と城主が交代、次いで信長の孫秀信(三法師)にかわった。ところが秀信は関ケ原の戦いで西軍についたため、慶長5年(1600)の岐阜城攻めの折り、加藤清正ら東軍によって攻め落とされた。
その後、徳川家康は取り壊した岐阜城の資材を用いて、約4km南に加納城を築かせ、城主に家康長女の婿である奥平信昌を任じた。岐阜城が廃されると、岐阜は城下町から在郷町・町人町として再出発することになった。
江戸時代の長良川の船運の主な湊は鏡島湊・長良・中河原・早田であって、長良川の上流からの船荷は、当地中河原に着けられた。その中でも木材が多く陸揚げされ、金森長近は飛騨の木材を上有知湊(美濃市)から中河原に運ばせた。郡上や飛騨などの木材が着けられた中河原では材木市場が発達し、材木町が発展した。
岐阜市は第2次世界大戦の空襲で、焼け野原になってしまったが、金華山山麓一帯は幸いにも免れて、長良橋南詰の湊町、玉井町、元浜町(旧中河原町)一帯には今も奥行きが深く、格子戸に荒格子、黒塀の家並みが続いている。
また、北から南へ、木挽町・材木町・茶屋町・金屋町・大工町・魚屋町・靱屋町など、往時名残の町名が残っている。
 この地を何度も松尾芭蕉が訪ねていて、元禄元年(1688)に中河原新田の油商賀島善右衛門(鴎歩)の長良川に臨む楼に登り、素晴らしい光景に「十八楼」と名づけている。
また、芭蕉は納涼に招いてくれた金華山西麓富茂登の庄屋、松橋喜三郎に対して「城跡や古井の清水先とはむ」と詠み、覇者信長の城も、今は草深い城跡になってしまった様子を詠んでいる。
湊町に鵜飼広場があり、この広場の横の岐阜観光ホテル十八楼を過ぎたあたりから川下に向かって沿った4〜500mの道路の両側に古い町並みがある。この辺りの商家(民家)は切り妻造り、平入りで、中二階、真壁で、荒格子、千本格子、出格子、袖壁、桟瓦葺で、軒先に半鐘がぶらさがっていたり、軒には防火の神様(秋葉様)がまつられていた家もあった。半鐘といい秋葉様は住民の懸命な、火事を出さないという防火意識の表われであろう。
玉井町の大野家、松井家、深尾吉左衛門家(伝統和紙 丁子屋)、小寺家、桑原家、木村家、元浜町では桜井家、中村家、後藤家、富茂家などの伝統的な家屋があった。どの家屋も目立った意匠を施すことなく落ち着きある家屋で、どれも同じような建て方で、余り目立った建物はないが、それがこの町並みの特色であり、暮らしのある活きた古い町並みであると思う。
町並み指数 60
参考文献   
  岐阜県の歴史散歩  山川出版社  岐阜県高等学校教育研究会  1994年
  角川日本地名大辞典  角川書店  角川日本地名大辞典編纂委員会  昭和58年


玉井町の町並み

玉井町の町並み

元浜町の町並み

玉井町の町並み

玉井町の町並み

玉井町の町並
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