江戸時代この辺りは長良三郷と云われ、上福光村・中福光村・真福寺村の三村からなっていた。岐阜町とは長良川の渡しによって結ばれ北美濃街道沿いにあるため町並が続いていた。 「濃州徇行記」には「上福光村は長良川の北岸に付き、中福光村は北美濃路より西側に付き、真福寺村は東側に附いて中福光村と真福寺村と町屋相向えり(中略)この街道は奥筋洞戸(洞戸村)・板取(板取村)・谷合(美山町)の方へ通じ、街道筋故三郷町並も繁昌し、商物多し、農人の外、大工・舟大工・左官・瓦屋・穀物屋・酒屋・紺屋‥‥などあり」と繁昌の地であったことが記載されている。寛政年間(1789〜1800)には長良三郷の人数は2,685を数えた。 又この地は長良川鵜飼の中心地で「新撰美濃志」によると鵜を使って魚を捕る鵜匠は、慶長年間(1596〜1614)には12人であったが、元禄年間(1688〜1703)に二人増えたが以後年中困窮し、宝永4年(1707)には舟7艘の減少を見ている。享保14年(1729)には鵜匠が7人になったという。 今 街道筋をあるくと、旧北美濃街道に沿って古い町並が展開している。平入り・中2階建てや2階建てで、袖壁を有した家が連続して並び、古くからの街道筋だった名残が色濃く残っている。 角川日本地名大辞典 角川書店角川 日本地名大辞典編纂委員会 昭和55年 岐阜県の地名 平凡社 (有)平凡社地方資料センター 1989年 |