古川の町は高山市の北西にあり、高山を流れる宮川と荒城川が合流するところに開けた町である。 羽柴秀吉の命令で飛騨を攻撃し、平定したのは大野城主の金森長近である。金森長近の長子長則は本能寺で信長とともに戦死しているので、養子金森可重を向かえ、養父の長近が飛騨高山の領主になると、可重には古川盆地を領地として与えられた。 高山城は長近が入国してから、2年後の天正16年(1588)ころから普請をはじめ、三の丸完成までに16年を要した。また、可重は1年遅れて増島野に増島城の構築にとりかかったが、完成したのは慶長13年(1608)まで19年間も続いたという。 増島城は平城で表方は荒城川、裏方は深い沼田であって、城下町は瀬戸川を境にして北側に武家町を、南側荒城川までの間を町人町にした。そして古川も高山同様に商工業の保護育成に力を入れ、文化の導入にも積極的であった。この政策は天領になった後も続いたので、古川の町は大いに栄えた。 慶長13年(1608)に長近が死去し、可重が二代目の高山城主になったので、増島城の二代目の城主になったのは金森重近(宗和)だが、元和元年(1615)の一国一城令で、城ではなくなり金森家の古川旅館となったが、元禄の金森氏の転封で高山城とともに取り壊されてしまった。 城下町の町割は今にそのまま残り、飛騨の匠の技を伝えるたたずまいや、町人文化が栄えたのも高山同様で、金森氏治政のもとで高山とおなじように発展した城下町だから似ていて当然だろう。高山が飛騨の小京都なら古川は飛騨の小高山である。 壱之町の通りは古い町並みが見られる通りである。造り酒屋の荒城屋渡辺家と浦酒造場がある。渡辺家の主屋の建て方は高山の町家と全く同じで切り妻造り、中二階建、平入り、一階も二階も格子だが一階は少し荒い格子と出格子、二階は荒い格子に障子が入っていて、屋根はトタン葺であった。浦酒造場の主屋は切り妻造りの中二階建、平入り、一階も二階も格子だが一階は少し荒い格子と出格子、二階は荒い格子にガラス戸が入っていて、屋根はトタン葺であった。 渡辺酒造店と浦酒造場は高山同様に、柿渋に煤とベンガラを入れた塗だが、一階部分は色が淡く赤味で、二階部分は高山のように焦げ茶色に塗られていた。軒庇は板貼りで、梁の先端のみ白く着色されていたのは最近の流行のようだ。同じといってもいいほど良く似た建物の、渡辺酒造店と浦酒造場が並んであり、壱之町の古い町並み形成に貢献していた。この二軒の造り酒屋の裏側に廻ってみると、白壁・黒板壁の土蔵と瀬戸川の流れの調和した景観があった。 一般的な古川の古い町並みの家屋は、切り妻造り、二階建か中二階建、平入り、トタン葺の屋根、柿渋に煤とベンガラを混ぜた塗だが高山より少し淡い色のようだ。一階二階とも少し荒い目の格子、梁の先端は白く塗られていた。 古川町で有名なものは、4月19日〜20日の「起こし太鼓」と古川祭りであろう。祭り屋台は九台あり、高山同様に飛騨の匠の技術の粋を集めたきらびやかな「動く陽明門」が登場し、絢爛豪華な時代絵巻を展開する。 岐阜県の歴史散歩 山川出版社 岐阜県高等学校教育研究会 1994年 書籍名不明 金森家六代抄 後藤吉郎(郷土史研究家) 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 |
壱の町の造り酒屋 |
酒蔵の土蔵群と瀬戸川 |
殿町の町並み |
壱の町の造り酒屋 |
壱の町の町並み |
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