明智町の町並み 
本町・常盤町・宮町
地図


本町の町並

  明智町は岐阜県の最南東部、愛知県との県境にあって、江戸時代には飛騨高山――明智――岡崎を結ぶ南北街道と、名古屋――明智――信州飯田を結ぶ中馬街道とが交差する交通の要衝であった。
また、明治末から大正にかけて、明智は製糸産業で栄え、今もその面影を色濃く残す大正ロマンの町である。
町を見下ろす城山(標高528m)山頂に明智城跡がある。この城は岩村城を本拠地として栄えた遠山氏の分家遠山景重が、宝治元年(1247)に築城したといわれる。元亀元年(1570)甲斐の武田氏の攻撃をうけて城主遠山景行が戦死し落城した。
その後、関ヶ原の戦いの際に、遠山景行の子遠山利景が東濃平定の功により、徳川家康から旧領を与えられ、旗本遠山氏の初代となった。テレビでおなじみの「遠山の金さん」こと遠山左衛門尉景元は明智遠山氏の分家にあたる
元和元年(1615)の一国一城令により廃城となり、その麓、明智城大手門近く(現在大正ロマン館左側)に御陣屋と呼ばれる代官屋敷が造られた。それが旗本遠山氏の代官所陣屋跡で、代官村上氏が江戸時代の初めから明治維新まで政務を執った所である。土蔵と村上氏の代官屋敷は今もそのまま昔の面影を留めている。
明智町は明治末期から大正時代には製糸工場が建ち並び(二十数社)、最高級品が生産され、欧米にも盛んに輸出されていた。よって生糸を買い付けにくる仲買人たちで賑わい、町は活気にあふれていた。でも、その後の産業化・近代化に立ち遅れ、昔がそのまま残ってしまった。
最近になって過疎がすすむなか、住民たちの町おこし運動で、昭和59年に「日本大正村資料館」「日本大正村役場」「大正の館」を中心に、日本大正村の誕生となったのである。
「日本大正村資料館」は大正初期に建てられた濃明銀行の繭蔵で、特産の繭を融資の目的や買い取った繭を保管した銀行蔵で、建物の妻側には旧濃明銀行のシンボルマークが取り付けられていた。
「日本大正村役場」は明治39年に町役場として建てられた本格的洋風建築。木造2階建て寄棟の瓦葺の洋館。当時としては超モダンだった。
「大正の館」は旧橋本家。明治末期の重厚な建物で名家の佇まいが伝わってくる。
「大正路地」と呼ばれる石畳の小路がある。今でも大正時代の佇まいを色濃く残す路地で、土蔵の白壁と黒の板壁のコントラストが鮮やかである。
「うかれ横丁」と呼ばれる路地は、中馬街道の一部で、生糸生産の盛んな頃は、旅人や馬子を相手に酒やうどんを売る店が並んでいた。曲がりくねった裏路地だが、通りには道路を跨いで渡り廊下のある家もあって、珍しい光景である。        
町並み指数 40
参考文献
   岐阜県の歴史散歩  山川出版社  岐阜県高等学校教育研究会  1994年
   角川日本地名大辞典  角川書店  角川日本地名大辞典編纂委員会


町並み

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うかれ横丁

大正路地

南北・中馬街道の交差点
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