南木曽町妻籠の町並み  
妻籠
地図


寺下の町並

関ヶ原の戦いで政権を手中にした家康は、直ちに江戸と京都をつなぐ東海道の宿駅と伝馬制を確立し、続いて中山道も整備され、宿駅を定めて伝馬制を実施した。中山道の木曽路においても、11宿が設けられ妻籠宿もその一つとなった。そして江戸時代を通じ妻籠の宿場町としての歴史が展開されるのであ。
中山道は古代からの東山道を踏襲したものであり、江戸と京都の間の往還路として、東海道とともに多く用いられた。山間部を通る道中であり、道はやや険しいが、しばしば川留めのあった大井川の渡河や、浜名湖や宮・桑名間(七里の渡し)の渡船が必要であった東海道よりむしろ好まれることも多く、江戸幕府でも東海道に次いで重要視していた。この木曽路には北すなわち江戸側から、贄川、奈良井、藪原、宮ノ越、福島、上松、須原、野尻、三留野、妻籠、馬籠の各宿が置かれ、木曽11宿あったが妻籠は一番小さな宿場であった。
江戸の初期には幕府領であったが、元和元年(1615)からは尾張藩領となりそのまま明治を向かえた。寛永19年(1642)の家数は54軒・人数337人。天保14年(1843)の「中山道宿村大概帳」によると家数83・人数418人。本陣1軒(島崎家)、脇本陣1軒(林家)・旅篭31軒とある。宿は北から下町・中町・上町があり、枡形を挟んで寺下の町並が続いていた。
妻籠の古い町家は切り妻造り平入りで、緩い勾配の板葺石置き屋根であったが、今は殆ど鉄板葺に変わっている。そして軒先と破風には幅の広い堰板が付く。木曽では一般に見られる屋根の形式である。町並みで良く目立つものとして「卯建」がある。妻籠宿で卯建をもつ家が四棟あり、一棟は片卯建である。いずれも比較的新しく、江戸時代の妻籠にはなかったものと思われる。二階建のものは二階を40cm前後全面に出した、いわゆる出梁造りとしているものが多い。これも木曾では一般的で、軒の出を深くするための工夫と考えられる。また、くぐり戸付きの大戸、蔀戸、二階には格子も古い家屋では一般的である。
町家で公開されているのは、脇本陣林家(屋号奥谷)、下嵯峨屋、上嵯峨屋、熊谷家などで、ほかに馬屋も公開されていて、本陣は復元され公開されていた。
妻籠は日本の町並み保存運動の原点となったところで、昭和43年、住民たちは「妻籠を愛する会」を組織し、同46年には「妻籠宿を守る住民憲章」を定め、町並み保存を全てに優先させるため、「売らない、貸さない、壊さない」の三原則を貫くことを宣言した。そして昭和51年に妻籠は角館町(秋田県)、白川村(岐阜県)、京都市、萩市とともに初の「重要伝統的建造物群保存地区」に選定された。
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参考文献
  長野県の歴史散歩  山川出版社  長野県高等学校歴史研究会  1996年
  東海・北陸小さな町・小さな旅  山と渓谷社  山と渓谷社大阪支局  1998年
  妻籠宿  中央公論美術出版  小寺武久  平成元年
  木曽 歴史と民俗を訪ねて  信教出版部  木曽教育会郷土館部  平成8年
  古道紀行  保育社  小山 和  平成3年
  中山道歴史散歩  有峰書店新社  斎藤利夫  1997年       


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