新宮は熊野三山の一つ熊野速玉大社(通称新宮)の門前町として発展し、江戸時代になり新宮城(丹鶴城)が築かれ、門前町・城下町として発展した。 平安時代に熊野三山(本宮・新宮・那智)の霊威が高揚し、上皇・貴族の熊野詣が盛んに行われた。中世に入り熊野三山は繁栄を極め、三山の組織も整い、強力な勢力を有するようになった。源平両氏は熊野三山の勢力を利用しようと試み、その結果は源義経は熊野水軍の助力により平家を屋島壇ノ浦で破っている。 慶長5年(1600)関が原の戦い後、浅野幸長が紀伊へ入り、幸長の次男浅野忠吉が新宮に入り、慶長6年(1601)から熊野川河口の丹鶴城の築城に取りかかり、慶長末年(1615頃)までに完成した。 元和5年(1619)浅野氏に代わって徳川頼宣が入国し、新宮城には頼宣の家老水野重仲が入り、新宮は城下町として発展する。 築城までは熊野速玉大社の門前町として発生したと思われる。熊野街道大辺路が阿須賀神社の前から速玉大社へと通じていて、後に横町通り(現国道42号線)ができると、人家は丹鶴城と速玉大社の間と横町通り沿いに集中した。 築城前の町は速玉大社の御師・先達の宿坊や宿舎が巡拝の道筋に並び建ち、そこが町場化していったものと考えられる。 また、当地は熊野川上流山地から切り出される吉野材・熊野材の集散地で和歌山から伊勢方面への交通の要所にあたるため、紀南随一の経済都市として発展した。 そして築城以後、城下町として町づくりがなされた。中央を横町通りが南北に通り、城の西に上屋敷(現正明保育園)と下屋敷(現NTT新宮局)があり、そこから西、横町通りまでは武家屋敷であった。速玉大社周辺や千穂ヶ峯東麓には社人の家が並び、神社の鳥居から東に延びる本町やその北の舟町、南の鍛治町には町屋が密集し、門前町を形成し、城下町と門前町が一体となっていた。 明治10年頃の家数2,443。うち士529・農100・工100・商337・雑1,377。人数9,078。 明治24年では家数2,473・人数10,441・学校4・大船56・小船186とある。 古い町並みを訪ねて新宮市を訪ねたが、古い町並みを見つけられなかった。かろうじて阿須賀や千穂辺りに少しは見つけ出したが不満足だった。帰ってから地図を詳しく見ていると現上本町・現元鍛治町・薬師町・別当屋敷町・船町辺りに古い町並みが残っていそうと思えるが。 もう一度訪ねたいものです。 和歌山県の地名 平凡社 下中邦彦 1983年 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和50 |
阿須賀一丁目の町並 |
阿須賀一丁目の町並 |
阿須賀一丁目の町並 |
阿須賀二丁目の町並 |
阿須賀一丁目の町並 |
千穂一丁目の町並 |