秩父市街は埼玉県の西部に位置し、秩父盆地の東部、東京都心から約70kmである。 古くから大宮郷・大宮町と呼ばれていたが、秩父町と名称が代わったのは大正5年のことである。 江戸時代には大宮郷と呼ばれていた。江戸はじめは幕府領、寛文3年(1663)忍藩領となり明治を向かえる。同年に忍藩領の中心地の大宮郷に陣屋が置かれ、2人の役人が常駐していた。 大宮郷は門前町・市場町・宿場町として混合したまま発展した山間都市である。大宮郷の町場の形成は江戸中期以降と思われ、絹取引を中心とする六斎市によるところが大きい。取引される商品は絹・太織物をはじめ米・麦・たばこ・油・紙・漆・豆類・古着・農具・薪・炭・日用品などあらゆるものが取引されていた。 この地は年貢米の生産が不可能な所が多く、商品流通の発達によって生活基盤を支えた大宮郷には、領内農村地帯から持ち込まれる諸商品を換金する市が繁栄し、藩も保護策を構じていた。 大宮郷を南北に貫く秩父往還(熊谷ー甲府間)の約1kmの両側に絹仲買商をはじめ、米穀商・酒造業者・旅籠屋・質屋・飲食店・紺屋等の商家が建並んでいた。 貞享元年(1684)の家数914・人数2,924とある。 またこの地で忘れてならないものに、中世から盛んだった観音霊場信仰がある。33ヶ所(江戸初期より34ヶ所)の霊場参拝は、やがて西国観音霊場巡りや坂東観音霊場と同列に扱われるようになって、隆盛を極めていた。 古い町並みは、旧秩父往還(国道299号線・県道73号線)沿いと、駅前から真っすぐ伸びる小鹿野への道筋に今でも見られる。旧秩父往還は道幅が広く拡張されたためか、古い形式の家屋は旧往還の西側に見られる。東側を立ち退かせての道路拡張だったのだろう。 古い伝統的な様式で建てられた商家建物は主に本町・道生町・宮側町に見られるが、これらの町は大宮郷・大宮町時代から各種問屋や商家の建ち並ぶ町だったところ。切り妻造りで土蔵造りの商家・袖卯建を備えた家などが並び、瓦ぶき、トタン葺の家々、中には入母屋造りの家や寄棟造りの家も混じる町並みだった。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和55年 日本の地名 埼玉県 平凡社 (有)平凡社地方資料センター 1993年 埼玉県の歴@ |