小田原市の町並
栄町2丁目・本町2〜4丁目・浜町3〜4丁目
地図


栄町2丁目の町並

 明応4年(1495)北条早雲が小田原城を奪い、小田原北条氏の時代がはじまる。小田原城が本格的に築かれたのは永禄3年(1560)に武田信玄に攻められてからだと思われる。
城は現在の天守閣の位置で、城の外周には小田原用水が開かれ、有力な商人や職人が集住し、交通網も整備され関東の雄にふさわしい城下町として繁栄した。
秀吉の来攻に備えて城の大普請が行われたのは天正16年(1588)頃である。しかし北条氏は天正18年に秀吉軍に屈し、北条氏五代100年の幕を閉じた。
同年徳川家康は秀吉から北条氏の遺領関東6ヶ国を与えられ、小田原城には家臣大久保忠世が入った。しかし慶長19年(1614)忠世の子忠隣は改易となり小田原城の主要部分が破却された。この間を初期大久保時代と呼ぶ。その後幕府領、阿部正次が入ったり、幕府領となったりしたが、小田原が東海道53次の宿場として定められてより、小田原は城下町・宿場町として発展する。関東への入口として政治・軍事・経済・交通・文化の一中心地となった。
寛永9年(1632)老中稲葉正勝が入部、その子正則は領内経営に手腕を発揮した。小田原城の復興拡大、城下町の整備に力を発揮した。この寛永9年(1632)から貞享2年(1685)に至る間を稲葉氏時代と呼ぶ。
貞享3年(1686)大久保忠朝が入部し、以後後期大久保時代という。忠朝以降10代忠良まで続いて明治維新を迎える。
稲葉氏時代に完成をみた小田原城下町は東海道の宿駅としても発展し、後期大久保時代の小田原は19町、町屋敷1,281軒その他251軒とある。19町は通り町9町と脇町10町で、通り町は東海道沿い東西に形成され、西から山角町・筋違橋町・欄干橋町・中宿町・本町・宮前町・高梨町・万町・新宿町と並ぶ。脇町は二つに分れ、一つは東海道南側通り町9町と並行して西から花畑町・代官町・千度小路・古新宿の4町と、高梨町から北上する矢倉沢往還(甲州街道)沿いに南北に南から青物町・一町田町・台宿町・大工町・須藤町・竹花町と並んでいた。
城下町であると同時に宿場町でもあった小田原は「天下の嶮」と呼ばれた箱根越えを控え、本陣4・脇本陣4の合計8軒もあり、東海道53次の中で最も多い宿場で、旅籠も95軒もある重要な宿場であった。通り町は東海道筋として旅籠を中心に料理屋・土産物屋などが連なり、脇町には城下町商人・職人・魚商人・漁師などが多く住んでいた。
東海道宿村大概帳によると、天保14年(1843)の宿内家数1,542・人数5,404とある。
明治22年に東海道線が開通したが、当時は小田原を通らず、今の御殿場線が東海道線だったので、小田原の繁栄は国府津に移っていった。しかし昭和9年の丹那トンネル開通に伴い、小田原は東海道線になり、産業面で大きく発展することになった。
今小田原には古い伝統的様式の家屋は各所に散らばっているが、最も多く点在するのは、海岸沿いの旧東海道筋の本町3から4丁目、浜町3から4丁目付近である。蒲鉾屋や梅干の看板を掲げた古い商家がいくつも見られるが、古い町並と云えるほど連続して並んでいない。大正12年の関東大震災は小田原地方に大きな被害を及ぼしたので、今ある伝統的な家も大震災後に建てられたものが多いようだ。そんな中に寛永10年(1633)創業の小西薬局も国道一号線沿いに店を構えていた。
町並み指数  30
参考文献
   神奈川県の歴史散歩上  山川出版社  群馬県高等学校教科研究会 1998年
   角川日本地名大辞典  角川書店  角川日本地名大辞典編纂委員会  昭和59
   神奈川県の地名  平凡社  下中邦彦  1984年
   東海道を歩く  山と渓谷社  山と渓谷社大阪支局  2001年
   日本の街道 東海道1  講談社  清水満郎  平成14年


浜町3丁目の民家

本町3丁目の民家

本町3丁目の民家

本町3丁目のなりわい交流館

本町4丁目の薬屋さん(小西薬局)

本町2丁目の料理屋さん

栄町2丁目の民家
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