土浦市の町並み 
中央一丁目・中央二丁目・真鍋町
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中央二丁目の町並
 土浦は水戸街道や桜川水運・霞ヶ浦を通じた水運の発達で穀物・肥料などの問屋が軒を並べた町である。
天正18年(1590)土浦は菅谷氏の支配を離れ、結城に本拠をもつ結城秀康の所領となり、土浦城には代官が置かれた。秀康が慶長6年(1601)に越前転封後、領主は松平信一・西尾忠永・朽木植綱と代ったが、寛文9年(1669)土屋数直が土浦城主となった。その後一時大河内松平氏の支配があったが、それ以外は明治維新まで約200年間土屋氏の支配が続いた。
城下の整備が本格的に開始されたのは松平氏の時からで、水戸街道を城下に取り込みその沿道に田宿町・中城町・本町・中町・田町・横町などを造成した。櫻川に銭亀橋、堀川に簀子橋旧櫻川に櫻川橋の3橋が架橋され、武家屋敷として勝軍木郭・西郭が造られた。享保年間(1716〜36)の土浦城郭図によると、城下の武家屋敷と町家とは水堀によって明確に区画されている。
土浦は水戸街道・霞ヶ浦・桜川などを通じて商業が盛んで、天保7年(1836)の町奉行より伺有之承届に「中城町分駒市 三月十一日より十五日迄」「東崎町分大市 十月廿一より廿五日迄」とあるように、駒市・大市が開かれていた。その他に新大市も開かれていたようだ。
櫻川の大町河岸、河口から通じる水路によって、桜川流域や霞ヶ浦沿岸諸村を取引圏とする穀物・肥料などの問屋が軒を並べるようになった。また桜川河口河岸にも船宿・船問屋・旅籠が建ち並ぶようになった。
城下のうち町人の人数は享保6年(1721)頃2,280、元文5年(1740)2,401、天明6年(1786)3,988、天保10年(1836)5,098とある。
享保11年(1726)頃までには城下町が一応完成し陸上・水上交通の発達とともに商業都市としての性格も帯びてきた。江戸川の開削と利根川の銚子口への河道付け替えによって霞ヶ浦・北浦・利根川・江戸川を結ぶ内陸水路が開け、江戸との往来が激しくなり商業活動が活発になった。船問屋は中崎町に3軒・東崎町に5軒あり、いずれも高瀬船を所有し回漕業を行っていた。
江戸へ運ばれるものは、年貢米・町人米・醤油・酒・油・薪炭・木材・瓦などで、江戸からは〆粕・干鰯・塩・小間物・呉服などが送られてきた。このように土浦は水陸とも交通の要となり、特に船運を通じて霞ヶ浦沿岸の諸村からの物資の集散地として発展した。
また、良質の大豆・麦によって醤油醸造業が発達し、藩の保護もあり宝暦11年(1761)には醤油株仲間を結成するほど発展し、水運によって江戸へと運ばれた。
また、土浦は水戸街道の土浦宿としても栄え、本陣は本町の山口家・大塚家、問屋は中城町の入江家などであった。土浦宿は水陸両方の宿場町であったので、水戸街道沿いの旅籠と船宿があった田町川沿いや川口町に別れていた。
江戸期を通じた火災は記録に残るだけでも29回にも及び、元禄4年(1691)の大火では城下のことごとくを焼失した。
今、旧中城町・本町などには江戸期から続く老舗もあり、古い佇まいを見せている。
関東地方特有の大きな鬼瓦を乗せた重厚な店蔵造りの建物や土蔵が並び、中には昔そのままに観音開きの扉を備えた店蔵も何棟が見られた。町では保存に向って努力されている様子が伝わってくるが、残り少なくなった伝統的な個人所有の建造物を保存する難しい問題を抱えているのは何処も同じであろう。
町並み指数 40
参考文献     
  角川日本地名大辞典  角川書店  角川日本地名大辞典編纂委員会  昭和58年
  日本の地名 茨城県  平凡社  下中邦彦  1982年
  関東小さな町小さな旅  山と渓谷社  山と渓谷社大阪支局  2001年
  茨城県の歴史散歩  山川出版社  茨城県歴史散歩研究会  1993年  

中央一丁目の町並

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中央一丁目の町並

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真鍋町の町並

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中央二丁目の町並