大野市の町並み 
七間通り・泉町・三番通り・寺町・本町通り・寺町・柳町・
地図


七間朝市の風景

  天正3年(1575)織田信長は金森長近と原政茂にこの地を平定させ、大野郡の三分の二を金森氏に与えた。金森氏は翌天正4年(1576)亀山山頂に大野城の構築と、その東麓に城下町を造り始めた。金森長近の大野城は、山頂を本丸として天守閣を構え、その東側山麓に二の丸・三の丸が配された。外堀・内堀をめぐらした。
城の東側には城下町をつくり、武家屋敷は東麓を城郭を取り囲むように配置され、北側には足軽屋敷も置かれた。
長近はまず、大野城の外堀(百間堀)に沿わせて、城郭を囲む武家屋敷とした。町屋敷は東西六条、南北六条に区画し、飲料水・防火用水には本願清水の地下水を南北六条の町並みに流して利用させた。金森長近はその後、天正14年(1586)飛騨高山に移り、その後、大野城主は青木秀以、織田秀雄、土屋正明、小栗正勝、松平直政、松平直基、松平直明とめまぐるしく城主が交代した。
そして天和2年(1682)土井利房が大野藩主に封ぜられ、金森長近のめざした、亀山山麓の武家屋敷、中央部に町家、その東部に寺町という城下町を完成させた。
一番町を本町と呼び、七間町から五番町、そして横町は五穀を扱う大商人の町になった。米屋・糀屋・酒屋・味噌屋・餅屋・菓子屋が集まった。 
大野城下町は、まず、街路だけを碁盤目状に区画して縄張りされた。商家や寺院が建ち並び、城下にふさわしい都市の形になるには、数十年から百年はかかったであろうと思われる。大野城下を西は武家屋敷、東は寺町で囲むようにしたので、寺院は徐々に寺町筋に集まってきた。
城下町大野は、本願寺清水をはじめ、武家屋敷の清水町には「御清水」があり、各所に湧き出る清水の水で、町中が潤った。広大な九頭龍川流域の水や、廻りの山々からの水を大野盆地の底に貯め込んでいて、町のあちこちから自噴した清水は、網の目状の用水路に流れて、人々に利用されてきた
大野の市は大野藩初代藩主 土井利房の「覚書」から、天和2年(1682)にはもう3〜4日ごとに開かれていたことがわかる。それから100年後の安永年間(1772〜81)の記録に「七間町の市」が街路の中央で行われたとある。七間の朝市は明治中期のころ、一番町角から5番町の角まで、七間町の両側に店が並んで大変盛況だったようだ。
今、七間朝市は輪島や高山のように賑やかでないが、七間通りにポツンポツンと5、6人の近郷農家のおばさんが花や野菜を並べている程度だが、売るために加工した商品でなく、その朝のとれとれの野菜などであって、これが昔からの朝市の姿なのかも知れない。
七間町や本町の町家は切り妻造り、中2階建、平入り、太い登梁、1階は千本格子、2階は真壁で格子窓、大屋根は桟瓦葺、軒庇は銅板葺または桟瓦葺、袖壁が伝統的な商家の建築様式のようだ。
旧武家町にある「御清水」は、名水百選に選ばれた名水だが、僅かに清水が自噴しているだけであった。しかし口に含むと冷たくおいしかった。かって、町の中いたるところで自噴する「清水」があったが、今は殆どのところで自噴しなくなったり、少なくなり寂しい限りである。家庭でも企業でも地下水のくみ上げが多くなり、だんだんと自噴しなくなってしまったようだ。
そして町の東に配置された寺町には、お寺がずらりと並んでいる。幕末に活躍した先覚者たちの墓所も数多くある。そんな中に歴代藩主の土井家の墓もあった。     
町並み指数 50
参考文献
   福井県の歴史散歩  山川出版社  福井県の歴史散歩編纂委員会  1995年
   歴史と史跡の大野  大野市  河原哲郎  平成4年
   角川日本地名大辞典  角川書店  角川日本地名大辞典編纂委員会  1989年   


泉町の御清水(おしょうずい
 

寺町の景観
 

七間通りの町並み
 

三番通りの町並み
 

七間通りの町並み
 

本町通りの町並