小浜市の町並み
三丁町飛鳥・三丁町香取
地図
“海のある奈良と形容される小浜市には奈良同様に多くの神社・仏閣がある他に、歴史をたどれば、まさに大陸と日本の都を結んだ海のシルクロードとしての姿がある。 平戸・長崎・博多などの港を通した交易は、主として江戸時代に入ってからである。しかしはるか以前から小浜は大陸から人が渡来していた。文化が伝播する中国や朝鮮半島にも近い日本海側が表日本であった。そして日本海側のほぼ中央に位置する若狭小浜は、都(京都)に最も近く天然の良港で、琵琶湖水運により都に通じていたことから、大陸からの玄関口として最適な条件を備えていた。 小浜市内には古代からの著名な寺院が多い。いずれも奈良期〜平安初期に建立されたものである。その昔奈良・京都の人々が若狭小浜に拠点を置き大陸と交易を行った際、その拠点となったのがこれらの寺院であった。 北前船(西回り)の航路が確定する、元禄中期以前は秋田・越後・新発田から石見浜田にわたる日本海側諸藩の城米や、諸国の産物が小浜に陸揚げされ、琵琶湖水運により都に運ばれていた。これらの交易により小浜が最盛期を迎える。しかしその後元禄中期以降は西回り航路の北前船に中継交易の荷を奪われ、港は衰退したが、松前・蝦夷と大坂を結ぶ北前船が立ち寄り、港の機能を維持してきた。 慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いで東軍に属した京極高次が十一万石で小浜に入り、従来の後瀬山城を廃し海浜の地(竹原)に築城をはじめた。と同時に城下町の整備にとりかかった。寛永11年(1634)京極氏松江移封のあと、若狭国小浜藩主として入部した酒井忠勝によって寛永13年(1636)に天守閣が、そして同19年に小浜城の完成を見た。着工以来41年を要した。江戸時代を通じてそれ以後、藩主の交代は無く、忠勝以後14代続づき明治を向えた。 武家屋敷、町人町などの城下町整備は酒井氏が引き継いだ。武家屋敷は城の北東の西津村へ拡大し、南川左岸を中心とする竹原屋敷と北川右岸を中心とする西津屋敷は、寛永年間中にほぼ完成した。 町人町は南川左岸の小浜湾沿いに町割りされ、慶長12年(1607)の定書によれば、町数41、東西に二分して東分家数932・西分家数305とある。その後も町人町の増加は続き、貞享元年(1684)の町割改めを経て、52町に固定され、東・中・西組に分けられた。 総家数は元文2年(1737)2262軒、文化5年(1808)2253軒で、人口は元禄6年(1693)9692人、享保20年(1735)10146人となっていた。 今、千本格子の残る「三丁まち」と称される町並みは古くからの遊郭街で、かっての飛鳥村の東部と香取村の南部を総称した呼名である。現在も往時を偲ばせる風情が残り、料亭や料理屋も多く、今でも芸子さんが存在する歓楽街である。 建物は殆どが大正時代以降に建てられたようで、総2階建てで平入りの家屋が多い。 三丁まち以外の町並みでは、平入りで袖卯建を備えた総2階建ての家屋が伝統的な建築のようであった。 福井県の歴史散歩 山川出版社 福井県の歴史散歩編纂委員会 1995年 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 1989年 |
白鳥の町並み |
三丁まち香取の町並み |
三丁まち飛鳥の町並み |
三丁まち飛鳥の町並み |
三丁まち飛鳥の町並み |
八幡神社鳥居横の町並み |